クルシス 十二ヶ月

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皐月

 彼の目の前で、白く細い指が器用に葉の端を裂き、細い茎を刺し、形良く舟を作っていく。笹の甘い緑の香が、彼女の手の動きとともにこちらに漂ってくる。目の前の小川が緑の絨毯のような草地の間を緩やかに曲線を描きながら下っていき、たまに顔を覗かせている小さな岩の隙間をコポコポと音を立てて、清水が流れている。
 出来上がった小さな舟は彼の目の前でそっと川面に下ろされた。透明な流れに日差しが反射し、濃い翡翠で作られたように舟は輝いてみえた。真っ白な指先がその緑の脇でいっそう眩しい。細い指先に続く、形の良い手や長くほっそりとした腕をたどると、川辺に腰をおろしたマーテルの微笑と出会った。ユアンも心躍るその微笑に答えるように、マーテルの指先をみた。
 彼が触れようと手を伸ばす前に、小さな流れがマーテルの指先から碧玉の小舟を奪っていった。
 小さく頼りない舟は、まるでこの世界の中で翻弄されている自分達のようにあちらに揺れ、こちらに揺れ、行く先も危ういかのように回転しながら、それでも下流へと進んでいく。きらりと上がる飛沫の中を爽やかな緑の舟はやがて周囲の風景へと溶け込み、見えなくなった。
「お前はこういうものを上手に作れるね。だけど、何のために作るのだ」
「ユアン、笑わないでね。この舟に願をかけるの。そして、川の神様に叶えてくださいってお祈りするの。子供のときには、よく家の側の小川に流したものよ」
 マーテルは家という言葉をもらしたとき、少し懐かしそうに空を見上げた。ヘイムダールを思い出しているのだろうか。確か、ヘイムダールは穏やかな流れに囲まれた小さな丘陵だった。各家のすぐ数歩先に小川が流れていたことをユアンも知っている。
 彼は父の生まれ故郷というその地にはほんの数日足を踏み入れただけであり、何の思い入れもなかった。ましてや、生き抜くだけで精一杯だった生まれ育った地など一片も執着はない。
 だが、マーテルとミトスはすでに袂を分かって長い故郷を今でも愛着をこめて思い出す。二人とも帰りたいとは一言も言わなかったが、おそらく、許されるなら訪れたいに違いない。
「故郷へ帰りたいか」
 聞くともなく尋ねる。空を見上げていたマーテルはその問いには答えず、ユアンの肩に頭をもたせかけた。華奢な彼女の腰に腕を回す。甘やかな彼女の香が深い森の空気に入り混じり、彼を深く覆った。
「すまない。つまらないことを尋ねた」
「いいえ、ユアン。ヘイムダールのことは懐かしく思うわ。でも、あなたがいる所が私のいる所。だから、帰りたいとは思わない」
 マーテルは腰に回された彼の手の上に、静かに己の手を重ねた。
「ユアン、ごめんなさいね。私、すっかりみんなのお荷物ね。こんなところでお休みをもらってしまって」
「いや、そんなことは断じてない。マーテルがいなくては、ミトスだって何もできやしない。クラトスや私もお前に世話になってばかりだ。それより、さきほどの笹舟には何の願をかけたのだ」
「叶ったら教えてあげる」
 マーテルはきらきらと輝く翡翠の瞳で彼を見上げる。彼を包み込む柔らかい初夏を感じさせる風に、またふんわりとマーテルの香が広がる。互いに触れあっている手にじんわりと熱がこもる。
 見つめ合う二人の間にはらりと明るい緑の葉が落ちてきた。
 二人を釘付けにしていた魔法は解け、彼はほっと息を吐いた。


 マーテルが一枚の笹の葉を差し出した。
「ねぇ、ユアン。あなたも笹舟を流してみない」
「作り方を知らないんだ。子供の頃いた修道院では川で遊んでいる余裕がなかったからな」
「そう、ユアンはいつでも真面目に務めを果たしているものね」
「いや、生きるのに精一杯だっただけだ」
「生きる物は皆そうよ。私もあなたも全てのものが」
 マーテルは彼の脊に両手を回し、優しく抱き締める。ユアンはマーテルにされるがまま、小川の流れに耳を傾けた。小さな笹舟が閉じた目に浮かぶ。流れに翻弄されているようにみえ、巧みに波に上下しながら流れていった。
 マーテルが静かに抱擁を解く。物足りなさに目を開ければ、眼前にマーテルの笑顔があった。
「ユアン、あなたならすぐに覚えられるわ。とても簡単。私が教えてあげるから作ってみない」
「そうだな。お前に教えてもらう笹舟の方が聖堂で祈るよりも効き目がありそうだ」
「まあ……」
 マーテルの玉をころがすような軽い笑い声がまた彼の胸を震わせた。
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