クルシス 十二ヶ月

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水無月

 新緑の白樺と背後に聳え立つ巨大なぶなの木に囲まれ、訪れ者もほとんどいないその草地は、しのつく雨に濡れそぼっている。ユアンは雨をしのごうと、一段としっかり枝を広げたぶなの木の下に座っていた。森の奥からの吹き寄せる冷たい風が彼の肩に寄りかかったまま動かないマーテルの髪をなぶる。
 濡れて鮮やかな草原の向こうは、止まない雨に煙り、霧の包まれていた。ユアンはマーテルの様子を静かにうかがった。閉じられた瞼の上に吹き込んできた雨がぽつりと落ちた。彼に寄りかかり眠っているマーテルの頬は血の気が戻ったのか、薄く染まり、彼女の色白な顔を引き立てている。彼は、濃紺のマントで包んだマーテルの肩をぎゅぅと力をこめて掴んだ。マーテルの長い睫がぴくりと動いた。二人は雨を避けながら、隠れ家を探しに出かけた仲間が戻ってくるのを待っている。
 草の上に、マントから飛び出したマーテルの脛が慎ましやかに揃えられている。濃紺の生地と対照的な白い脛がひどく彼の目に眩しい。だが、よく見れば、左足の脹脛にはうっすらと引き攣れた痕が残っている。傷痕はおそらく消えるだろう。だが、あのときに彼が感じた恐怖は永遠に消えないかもしれない。
 


 濃い朝霧の中を宿屋を出たのは朝も遅くだった。
 前夜、クラトスとユアンは、噂話を仕入れるために訪れた酒場で不穏な噂を聞いた。隣国の境界線にいよいよ軍が集結しているらしいとのことだ。このあたりの森を縄張りとしている狩人や樵たちがひそひそと情報を交換している。こちらの国では野放しになっているハーフエルフ狩りを、強国である隣国が勝手に始めようとしている。ハーフエルフの扱いには慎重だったこの国の王も、ここで誠意をしめさなければ、そのまま、戦争に突入するかもしれない。
 潜伏していた小さな宿屋で、夜更けまで相談した。このままでは、双方の国から追っ手がかけられのは間違いない。まだ、この宿屋では正体に気づかれていないようだったが、時間の問題だ。この地は三国の境界がごく隣接している。今はハーフエルフ狩りに立ち向かえる状況ではない。弾圧で疲弊しきった組織を立て直しためにも出直すしかないだろう。
 四人は翌朝も朝食の後、他の旅人にまぎれるように人の多い時間に宿を出ると、ノイシュを連れて国境を目指した。街道沿いに逃げ落ちたかったが、山越えしかないだろう。一時間も歩いたところで、霧に紛れて、四人は街道を逸れた。無数につけられている狩人道の一つに入ると、クラトスが調べた峰を目指し、急峻な山道へと分け入った。


 後をつけられていることに、まず気づいたのは、ミトスだった。
「ねぇ、僕達以外に動いているものがある。動物かどうか分からないが、石が落ちる音が聞こえたよ」
 クラトスも直ちにミトスの指摘に反応した。
「ああ、この岩場で、ヒツジが石を落とすことなどないだろう。明らかに我々を追ってきている。私もさきほど、金属が岩に当たる音を聞いたと思う」
 四人は立ち止まり、顔を見合わせた。垂れ込めた霧が周囲を真っ白に覆い、敵の影も、これから先に進む道も判然としなかった。
「ここは足場が悪い。迎え撃つとしても、もう少し先まで移動した方がよいだろう」
 言わずもがなな意見をユアンが言い、四人は再び険しい岩場の道を上り始めた。ノイシュは何かを感じ取ったのか、先に走り出すと、その姿はたちどころに見えなくなった。しかし、四人は気が急くほどに足は進まず、乳白色の霧はやがて雲となり、雨が降り始めた。塗れた岩場はさらに細く険しくなり、先頭を歩くユアンは、どうにか掛けられる小さな足場を探し出し、棚のように張り出す岩の上へとよじ登り、先の道を確かめる。背後を守るクラトスの姿も、濃い霧の中ではっきりしないほどだった。マーテルのかすかな息だけが、彼の足元から聞こえた。
 マーテルが岩場から足を滑らせたのは、彼が先を見るために高い岩場にあがり、先を確かめようとしたときだった。先に同じ足場まで引っ張りあげれば良かったとユアンが後悔する間もなく、敵が岩のがらがらと落ちる石音に反応した。
「音がした」
「あそこにいるぞ」
 岩場に一陣の風が吹き、彼らを匿っていた厚い霧がさっと動いた。向かい側の崖を降りようとする敵と、まさに同じ高さで目線が合った。
「狙え」
 クラトスが素早く反応して、数メートルの岩場を駆け上がり、撃ち放たれた矢を落とそうとした。ミトスが姉の体に被さるように、ウィンドを唱えた。しかし、クラトスの奮闘もミトスの咄嗟の機転もかいくぐり、それはマーテルの脹脛へと突き刺さった。わずかに声をあげた後、マーテルが口を押さえながらゆっくりと岩場を滑り落ちていく。こうなっても、再び上がってくる霧の中で場所を知らせまいとする彼女の必死な目線が彼の脳裏に焼きつく。
 矢はまた数本放たれるが、それはむなしく岩に跳ね返る。マーテルの後を、クラトスが彼女の落ちた方へと飛び降りた。
「ユアン、ミトス、援護してくれ」
 言われるまでもなく、ユアンはミトスと共に岩場の影に身を潜め、敵の動きを探り出す。派手に音を立てて移動する敵の位置は、霧の中でも容易に追えた。ユアンはサンダーブレードを落とすと、大きなうめき声と共に落石の音がまた激しくなった。
「ユアン、僕が前に出る。クラトスが上がるまで、そこでの援護は任せた」
 ユアンの耳元に一言残すと、ミトスは厚い霧の中に姿を消した。何本かの矢が飛んできたが、再び立ち込めた厚い霧の中、それは明後日の方向に向かっていった。
「よし、マーテルは確保した」
 クラトスの声が背後から聞こえた。
「では、安全な場所まで連れていってくれ」
 彼が答えようとすると、クラトスが彼の腕を引いた。
「ユアン、このような狭い場所では私の方が有利に戦える。それにマーテルの出血がひどい。なにやら、刺さっている矢はたちがよくなさそうだ。お前が見てくれ。この先、数刻降りたところで分かれ道があるはずだ。そこで落ち合おう」
「分かった。ミトスは先に出た。霧が深いから、合図を忘れるな」
 手短に答えたユアンの腕に、ぐたりとマーテルが寄りかかった。
「私は大丈夫。一人で降りらるわ」
「無茶を言うな。では」
 クラトスが小さな声でたしなめたかと思うと、霧の中、岩場の下へと身を翻した。
「さあ、足を見せて」
 クラトスが簡単に止血している足はすでに腫れている。
「痛むだろうが、私の肩につかまってしばらく頑張ってくれ」
 ユアンは押し寄せる不安を押し切るように、マーテルの脇に腕をまわすと、抜けようとした岩の隙間へと彼女を誘導した。背後で剣が岩場に触れ合う金属音がかすかに響き、直後に矢の空を切る音がする。クラトスかミトスが追いすがる者たちを引き寄せるためにわざと音を立てながら、進んでいるに違いない。
 再び、冷たい雨が激しくなってきた。後に何か見えるかと振り返ると、マーテルの足から流れ落ちた血が雨ににじみ、白い岩の上を下へと流れ落ちていった。


 ユアンはマーテルと共に気配がなくなるまで、息を殺しながら、張り出した崖の下で身を伏せている。途中で二人を待っていたらしいノイシュに導かれ、ユアンはどうにかマーテルを抱いてそこまでたどり着いた。強い風が吹きつけるが、雨はかろうじて避けられている
 マーテルは彼の胸の中で体を小鳩のように震わせている。その危機を分かるのか、ノイシュが鼻を小さく鳴らして、マーテルの反対側に座っている。
「マーテル、大丈夫か。痛みは治まらないのか」
 ユアンはマーテルの腰に腕を回し、震えている彼女を暖めるようにふところに入れる。じっとりと冷や汗を浮かべている彼女の体はいつもより熱く、彼の胸に寄せられている彼女の息はとても速い。矢の先に何か塗ってあったに違いない。さきほど抜き出したやじりを念のために軽く舐めてみたが、鉄さびたマーテルの血の味しか感じられなかった。さほど、強い毒ではないと判断したのが間違っていたのかもしれない。
「私は平気よ。ユアン、あなたこそ、クラトスとミトスが気になるでしょう。待っているから、様子をみてきて」
 気丈に振舞うマーテルが痛々しい。
「我慢しては駄目だ。正しく症状を教えてくれ。手遅れになっては大変だ」
 彼が囁けば、マーテルが腰に回されている彼の腕の上に震える手を寄せてくる。
「少し、少しだけ、手や足に力が入らないの。目も霞むような……」
 末梢神経を麻痺させるものに違いない。彼の腕に乗せられていたマーテルの手が力なく滑っていく。取り上げれば、かなり冷たい。慌てて、携行している薬草を探る。いつもなら、すぐに見つかる薬が今日に限って出てこない。
 慌ててはだめだ。自分に言い聞かせながら、薄暗いなか、ゆっくりと手探りする。
「マーテル、マーテル」
 彼の呼び声に胸に持たせかけられているマーテルの頭がわずかに揺れるが、声はない。震える手で見つけ出した粉薬の包みを開ける。
「マーテル、聞こえるか。これを飲んで」
 目がうっすらと開くが、声は出さない。かすかに瞬きをした目もまた閉じられた。心臓を握りこまれたような胸苦しさを覚えた。
 もう一度、自分に向かって繰返す。慌ててはだめだ。水入れを探し、薬とともに口に含む。苦味が口中に一杯広がった。そう、これは薬の味だ。不安でも恐怖でもない。マーテルは助かる。助けなくてはならない。
 そのまま、ふっくらとした唇に触れ、中へと流し込む。飲みきれない水が二人の唇から漏れ、彼の喉へ、彼女の胸へと滴り落ちた。かすかに動く舌の反応に、もう一度薬を含んで同じことを繰返す。

 
 力の抜けた彼女の体を抱えたまま、どれだけ経ったのだろうか。かたりと落石の音がした。すぐ上を人の足音がする。小石が踏みにじれられ、じゃりという。ノイシュが耳を不安そうに立て、マーテルの手を舐めた。
「ノイシュ、万が一のときはお前がマーテルを助けてくれ」
 血の気がもどってきたが、まだ薬が効いて寝ているマーテルの体をマントに包んだまま、そっと地面に下ろした。ノイシュは彼の言葉が分かったのか、その横に体を並べる。
 これほど狭い足場では彼の得物は役に立たない。口の中で詠唱の準備を始める。
「ユアン」
 低い聞きなれた声が彼の名を呼んだ。
「クラトスか。いきなり驚かさないでくれ」
 賛同するかのように、ノイシュが鼻を鳴らした。クラトスはゆっくりと彼に近づいてきた。
「すまない。思ったより、敵の数が多くて手間取った」
「ミトスは無事か」
「ああ、道の安全を確かめるために、この先の分岐を調べている。マーテルはどうした」
 クラトスは返事がないことに気づき、不安そうに尋ねた。
「薬を飲ませたので、寝ている」
「動かせそうか」
「ああ、ここにいては、これ以上どうしようもない。できれば、すぐに移動したい」
「わかった。ミトスを呼んでくるから、準備をしていてくれ」
 まだ止まない雨の中、ユアンは震える手でマーテルを抱えると立ち上がった。ノイシュが不安そうにユアンを見上げた。


 ぶなの葉から雨がぽたぽたと落ちてくる。しかし、空は明るくなってきた。雨もどうやら上がったようだ。上を見上げれば、淡いぶなの若葉の葉脈が透けて見える。辺りは静まり、何の気配もない。
 逃げ切った一行は、マーテルの傷が癒えるのを待ちながら、隠れ家を点々としていた。雨の季節も終わりに近づいた今日も、別の隠れ家へ移動するため、ミトスが先に様子を調べてにでかけていた。クラトスはノイシュを連れて食料を調達しに、近くの村まで出かけている。
「ミトスはずいぶんと遅いな。日が傾いてきた」
 ユアンがぽつりと言った。
「昼食を作ろうにも、クラトスも戻って来ない。大丈夫か、マーテル。もう、足は痛まないか」
「あなたが治療してくれたからもう平気」
「だが、傷跡が残っている」
 ユアンはマーテルの足の傷の上を優しく撫でた。
「ユアン、気にしないで。そのうち消えるもの。それにね、私、少しだけこの傷に感謝しているの。ユアン、ずっと私の側にいてくれたでしょう。だから、もうちょっとこうしていてもいいわ」
 マーテルはそれは小さな声で言うと、恥ずかしそうにユアンの肩に顔を埋めた。彼は見るともなく、上を見上げた。淡い緑のぶなの葉が幾重にも重なり、空を埋め尽くさんばかりに広がっている。彼の心の中を埋め尽くすマーテルの数々の言葉にも似ていた。二人の周囲に落ちる雨粒の音が、ひときわ大きくユアンの耳に響いた
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