クルシス 十二ヶ月

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卯月

 地平線の向こうまで桃色で染まった緩やかな丘陵は春の日差しに穏やかに伸びている。この向こうで、血塗られた争いが繰り広げられ、聞く者を凍りつかせるような叫びが上がったことを誰が気づくだろうか。
 踏みつけるのも申し訳ないほど見事に花をつけた芝桜の中を、道なき道を求めて、ユアンは歩を進める。傷ついた腕から落ちる血がポタポタと花の上に落ち、薄桃の花を深紅に染める。少し歩いて振り返れば、血の後は花の芯の濃い朱鷺色と交じり合い、傍目には目立ってはいなかった。盛りの花達は彼が踏みつけた程度ではすぐに頭をもたげ、数分まえに歩いた場所はすでに風にそよぐ花達で覆われている。
 ふいに足元から雲雀が飛び出し、チチッという警戒の声と共に空高くへ舞い上がっていった。失われていく血のせいだろうか、さきほどまで彼が中心となっていた醜い争いのせいだろうか、麻痺した心はそんな小鳥の驚きに反応することができなかった。
 前へ、前へと本能が教えるままに彼は進んでいく。手にしていたはずの短剣は痺れた手からささえきれずに、どこかで落としてしまったようだ。指先からぽたりと流れる血をぬぐおうと、もう一方の手で支えようとしたときに、ユアンは武器を持っていないことに気づいた。とたんに、動悸が激しくなった。
 接近戦を行う力は残っていない。だから、短剣などもはや不要だ。そんなことで焦ってはならない。ユアンは自分に言い聞かせた。敵の姿にいち早く気づくことができれば、範囲魔法でそれなりの抵抗はできる。だが、さきほどの戦果がどれだけあったにしろ、数では多数に一人だ。勝ち目はない。ここまで引き付けたのだから、彼の役目は十分に果たせた。もちろん、敵を殲滅し、生き延びることができるのであれば、それが一番だった。今となっては、次善の策として、数を減らすことだ。できれば、命を終える前にマーテルと子供が無事だったことを知りたかったが、多くは望むまい。
 柔らかい草の褥がここで休んでいけと彼に囁きかける。その誘惑は大きく、何度も足が立ちどまりかけた。その度に、ユアンは彼を呼ぶ小さな声を頭から振り払い、唇を噛み締めて、前へと進んだ。ぐらつく体にかつを入れ、緩やかに下る先の森を目指す。霞んだ目には森が薄暗かった。


 昨晩、幼い子供が夜闇に紛れて、二人の家へと忍んできた。震える手で差し出した走り書きは、半分血塗られていた。さっと目を通したユアンはたちどころに立ち上がった。濡れたタオルで子供の汗を拭いていたマーテルが目で彼に尋ねた。彼はゆっくりと首を振ると、寝台の影においてある小さな荷物を取り上げ、マーテルへと渡した。
「マーテル、君とこの子は灯を落としたら、床下に隠れろ。何があっても、三日は下にいるんだ。いいね」
「ユアン」
「そのとおりだ。すでにこの子のいた村は全滅したと思う。後は私が迎え撃つだけだ」
「あなたも隠れましょう」
「それは在り得ない。何度も話したじゃないか。時間がない。いいかい。絶対に声をだすんじゃない」
 そこで、彼は子供の顔を見ようと膝をついた。
「ここまで知らせにきてくれた勇敢な君を信じている。君とこのお姉さんを守るために、全力を尽くしてくれ。外でどんな声がしても出てはいけない。それが、君のご両親の声がしたとしてもだ」
「父さんと母さんは死んだよ。あいつらにやられた」
「ああ、分かっている。だが、彼らは手ごわい。彼は幻術を使ってくるのだ。私も精一杯戦うつもりだが、生憎、今は一人だ。見方はマーテルと君だけだ。だから、君を頼りたい」
「父さんと母さんの仇をとってくれるの」
「そのつもりだ」
「わかった。お姉さんのことは必ず守る。絶対に声を出さない。三日はこの下にいる」
「よし、お利口な子だ。マーテル、相手は我々と同族だ。マナを気取らせるな」
 ユアンは伝えるべきことを言うと、うまく作った床の隠し戸を閉じ、上から床板をいつものように並べた。ミトスやクラトスと以前決めていたように、壁の上に小さな印を剣で刻む。彼はもう後ろを振り返ることなく、家から走り出た。一人で戦うためには、仕掛けが必要だ。


 はあと息を吐くと、口の中から血がこぼれた。彼の体を維持する石もここまでの傷にはすぐに対応できない。戦い始めて既にに一日半は過ぎた。彼の計算が正しければ、クラトスとミトスは二日でここまで戻ってくるはずだ。マーテルとあの子供の安全を確保するために、後、少なくとも半日を稼がなくてはならない。
 気配はまだ遠いが、確実に彼の後をおいかけてくる黒いマナが感じられる。敵対する者がハーフエルフであることがひどく残念であり、また、それだけに手ごわかった。同族であるが故にさらに憎しみを煽っているという残酷な現実が弱っている彼をさらに打ちのめした。
 弱音を吐いていられない。彼の愛する人と仲間がことを成就させるために、そんな気迷いごとで、貴重な時を無駄にしてはならない。ユアンは血の混じった痰を再度吐き出すと、森の中をうかがった。すでに勝敗はおおかた見えている。できるだけ村から離れよう。マーテルは必ず彼を探しにくる。このまま、マーテルでは探すことのできない森の奥まで行かなくてはならない。死に様を彼女に見せることはありえない。いずれにしろ、彼がこの地から消えるとき、どんなに離れていようとも彼女はそれを知るはずだ。
 地面のでこぼこに足を捕られ、がくりと膝が折れそうになった。痙攣する太ももに側の小枝を折ると突き刺した。全身が傷ついているせいで痛みは感じなかった。足の痙攣はおさまり、ユアンは再び立ち上がった。藪の薄い方向へと歩き続ける。森の枝に抵抗して、体力をそがれるわけにはいかない。ただ、村から離れようと歩き続ける。
 夕暮れの森の中は薄暗くかすんでみえる。それが体力がつきて目が霞むのか、明りが足りないのか、彼にはもう分からなかった。背後でパキリとで枝が折れる音がした。バサッと小鳥が飛び立った。おそらく、敵といくらも離れていないだろう。
 ユアンは覚悟を決め、背後に辛夷の大木が立つくぼ地の岩陰に身をおいた。歩くことはできない。冷たい岩に寄りかかると、嫌な汗が額からたらりと落ちてきた。長い髪が首にはりつき鬱陶しかったが、手は動かなかった。辛夷の白い花弁が顔の上へと散ってきた。目と閉じ、体にマナを集める。最後も容易くは終わらせるつもりはなかった。
「気配があるぞ」
 囁いているのだろうが、彼の耳にははっきりと敵の声が聞こえた。
「気をつけろ。さきほどのトラップで相当やられたからな」
 どうやら、敵は半減したようだ。感じる数は十を越えてはいなかった。
「血のにおいがする」
「あの魔術使いも弱っているはずだ」
「だが、油断しない方がいい」
 声は確実に彼の潜んでいるくぼ地へと向かってきている。
 そうだ。そのまま、まっすぐに来ればいい。術の範囲はもう限られている。全員が巻き込めるだけ近付くまで、待たなくてはならない。
 左手で木の枝を踏み抜く音がかすかにした。今の敵とは反対の方向から近付いてくる者がいる。まだあいつらの仲間が残っていたのだ。包囲されたに違いない。
 ユアンは唇を噛み締めて、悲痛の呻きをこぼさないようにした。敵全体を把握せず、無傷で残した部隊がいたとはうかつだった。周囲を囲まれてしまったいま、先に来る敵と戦うしかない。
 くぼ地へと降りてくる黒いマナの影を認め、ユアンは口の中で詠唱を始めた。どうせ死ぬのであれば、道連れはできるだけ多く、しかも、確実に巻き込まなくてはならない。寄りかかっていた木から体を起こし、霞む目を一度こすると、敵の方向を確認した。
 とたんに、背後からも人の気配がし、完全に囲まれたユアンは目を閉じた。激しい衝撃が彼の体を通り過ぎた。


 焦点の合わない目に柔らかな緑が揺れる。
 どうやら、あの世とやらも季節は春なのだ、とユアンはがんがんと痛み、思考を結ばない頭で考えた。ふわりと甘い香に血みどろの争いを繰り広げた芝桜の草原が浮かんだ。もう一度、マーテルに会いたかった。
「ユアン」
 マーテルの声がした。願望がそうさせるのだろうか、甘い香はマーテルのマナのようだった。薄っすらと目を開けると、涙を浮かべたマーテルの顔と少年の真剣な表情が見えた。
「マーテル、無事だったか」
 ユアンはどうにか声を絞り出した。
「あなたこそ……。無茶をしないで。あなたを失ったら、私は……生きていけない」
 マーテルはユアンの胸に縋りついた。ユアンは意志の力だけで痛んでいない方の腕を持ち上げると、愛しい女の髪を撫でた。
「私もだ。私もお前を失うわけにはいかない」
 背後から、あきれたようなミトスの声がした。
「それなら、姉さまを悲しませないように頑張ってよ、ユアン。僕達が駆けつけなかったら、自爆する気だったの」
「まあ、ミトス。マーテルは無傷だし、ユアンも命は取り留めたのだから文句を言うな」
 ミトスを遮るようにクラトスの低い声がした。
「ミトスにクラトス。助けてくれてすまない。だが、お前達、もう少し早く来てくれ。私でも限界がある」
「ユアン、少し黙っていてちょうだい」
 マーテルが彼の上に杖を翳した。ユアンは温かいマーテルの癒しの光に包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。目の端に少し怒ったようなミトスの顔と心配そうなクラトスの表情が映った。その背後に白い辛夷の花が夕焼けにそまり、彼が今日もまた生かされたことを教えてくれた。
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