クルシス 十二ヶ月

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弥生

 薄桃色の花が枝一杯に咲いている。緩やかにうねる丘陵の畑地に沿って道が伸び、道の脇に沿うように桃の木が植えられている。この数日の暖かさに、桃の木は一斉に花をほころばせ、長く見事なアーチを形作っている。
 長く険しい上りが終わると、小さな峠にたどり着く。数人が休める程度の平地の先は、逆にいきなり抉れたような下りの道が続いている。芽が吹き出した木々の合間に、眼下の見晴らしは素晴らしい。目的とする村が桃色の筋にそって広がり、ぼんやりと霞がかった春の空気の中、全てが眠っているかのように穏やかだった。ユアンは一息つくと、目指す村へと道を下りだした。
 先月、ミトスから長い手紙が彼の元に届いた。ミトスは村からいくつもの谷を越えた北の先にある貿易港で活動している。国と国とを行き交う船は貴重な情報をもたらしてくれる。ミトスの手紙には隣国での不穏な動きについて詳しく書いてあった。隣国のハーフエルフへの迫害は彼が想像していたよりも速い勢いで厳しさ増しているらしい。
 ユアンは、ミトスと相談した結果、単独で隣国へ潜入し、自分の目で確かめることにした。直接見聞きする出来事は海を隔てたこちらの国に伝わるよりも遥かに悲惨なものだった。身の危険を慮り、離れた場所から活動してきた。しかし、これ以上放置すれば、今は穏やかなこの国まで以前の状態に戻りかねない。
 ミトスや同志達と長時間議論した。結果、隣国へ有志で移り、反ハーフエルフに加えて民衆に圧制を布く今の体制への抵抗運動を現地の同志と共に活動すると決めた。この国の滞在もすでに十年が経過していた。根城にしていた小さな町もそろそろ引き払いどきだろう。
 若夫婦とその親戚という触れ込みで、町はずれの小さな家を借りたのがほんのちょっと前のように思えた。だが、近所の小さかった女の子が今年の秋には結婚ともなれば、時の変化はそれなりだ。姉とばかりにマーテルを慕ってくれた幼女も、今や、並んで歩けば、マーテルの方が妹と間違われてしまう。若くみえて羨ましいといわれている間はいい。それも、もう後数年で通じなくなるだろう。
 似ても似つかないのに、クラトスが親戚の独身青年と言えば、誰も疑いを持たなかった。そんな町だから、今日まで平穏に暮らせた。だが、ミトスからの手紙が頻繁に来るようになり、クラトスとユアンが入れ違いのように外に出て行けば、何を生業としているのか、疑問に持つ人間もいる。マーテルが細々と薬を売っていることを知っているものは、その薬屋の規模と男達の長期の不在に首を傾げている者もでてくる頃合だ。


 ユアンは村はずれの小さな借家に帰るなり、休む間も惜しんで、ミトスや同志達と決めたことを直ちに伝えた。いつもであれば、何も言わずに彼の言葉に頷くのに、マーテルはすぐにもこの町を離れるというユアンの言葉に顔を曇らせた。
「あの子の結婚式まではいてやりたいのだがどうだろうか」
 珍しく、クラトスもこの家をすぐに離れることに反対した。
「だが、夏になれば、海の向こうでの動きは一層速くなるだろう。ここは、そんな私情にかまけてはいられない」
「そうだろうか。お前もいつも言っているではないか。我々へ対する理解者は、エルフにも人間にもハーフエルフの中にも必要だ。あの子はマーテルを慕っているだけじゃない。マーテルが人ではないことも知っている」
 クラトスが淡々と語ったことの重大さに、ユアンは持っていたグラスをたたきつけるように卓の上に置いた。
「マーテル、あの子に何を話したのだ」
「ユアン、怒らないで。本当に偶然のことだったの」
「なぜ私に告げなかった」
「あなたもミトスもここ数年は気をつかうことばかりだったでしょう。だから……」
 マーテルは伏せていた目を上げると、ユアンをじっと見つめた。
「何か起こってからでは遅いのだ。マーテル」
「何も起きなかったわ。いえ、起こらないってわかっていたつもり」
「つもりですめば、いつでも、ことは簡単だ。だが、現実は」
 何か言いたそうに唇を震わせるマーテルの表情に、ユアンは荒げていた声を抑えた。脇から、クラトスが宥めるように彼に声をかけた。
「ユアン、マーテルを責めるな」
「クラトス、知っていて止めなかったのか。私にもミトスにもその事実を言わず、ないがしろのまま、無防備にここに滞在していたのか」
「ユアン、落ち着け。マーテルの話を聞いてやれ」
 ユアンは大げさに首を振り、グラスに残っていた水を飲み干した。かたりと再度グラスを置くと、マーテルが話し始めた。
「ユアン、この五年間、何も起こらなかったわ。あの子は自然に受け入れてくれたの。それはとても大切なことだと私は思っているの。あなたにも、ミトスにも黙っていたのはいけないことだったと反省するわ。でも、受け入れてくれる子どもたちが入ることを知るのは悪いことではないと思っている。でも、確かにそうね。ユアン、あなたに言わなかったことを謝るわ」
 マーテルは静かに立ち上がると部屋の外へと出て行った。
「ユアン、私にはお前たちの苦労は理解できないかもしれない。だが、あの子とマーテルは信頼しあい、何も変わらなかったのだ。お前だって、本当は分かっているだろうに」
 クラトスはテーブルの上においてある小さな包みを彼の前へと押し戻した。それは、マーテルとその少女のために、彼が港町で買い求めたささやかな髪飾りが収められていた。


 芽吹きの季節、草木はいずれもわれ先と一斉に萌え出でる。あたりまえのようでありながら、その準備は長い間時間をかけ、目に見えぬ地の下で行われている。厳しい冬のさなか、何も動かぬときに、来るべきときを迎えようとゆっくりと力が蓄えられている。
 草萌える庭の脇にマーテルが佇んでいる。先に見える村の家々を前に、淡い緑の髪が風に揺られ、春を告げる女神が降り立ったかに見えた。
 ユアンはマーテルの脇に立つと、白く形の良い手を静かに掬い上げた。マーテルはされるがままに彼の手に彼女の手をあずけ、黙って地へと目を伏せた。ユアンは長く細い指先に無言で唇をあてた。ひんやりとした指先がかすかに震えていた。
「すまなかった。私が言いすぎた」
「いいえ、そんなことはないわ。私も思慮が浅かったわ」
 マーテルはユアンの手から自分の手を引き抜くと、芝の上に優雅に腰を下ろした。
「隣に座ってもいいだろうか」
 彼が尋ねると、彼女は無言で頷いた。春の日差しが心地よく、微風に新緑が揺れる。ユアンがそろりとマーテルの肩に手を回すと、ゆるりと柔らかな体が寄せられ、マーテルの髪が彼の首筋をくすぐった。
「さきほどの私の言葉は忘れてくれ。お前の言うとおりだ。 いつでも、どこでも、ハーフエルフへの理解者が増えることは大切なことだ」
「……」
 マーテルは風に靡く小さな草の先を無言でもてあそんだ。白く細い指先に小さな緑の芽が見える。
「私は焦っているだろうか。小さな芽が出でようとするのを踏みつけてしまっているだろうか」
 ユアンがぽつりと言うと、マーテルの手が優しく彼の腰へと廻らされた。
「ユアン、その人にはその人のすべきことがある。あなたは、あなたのすべきことに全力を尽くしているのですもの。ミトスはミトスで、己のすべきことをしている。人それぞれよ。一人の人が全てを行うような、そんな全知全能な人なんて在り得ない。大きなことを為すためには、上を見なくてはならないのも本当のこと。私はあなた達と同じ働きはできない。だから、側であなた達が過ぎていったことのなかに、気づいたことがあれば、それを手伝うだけ」
 マーテルの長い髪が風に靡き、彼の肩へと落ちてくる。その柔らかな香に包まれ、ユアンは眼を閉じた。春の風は頬に冷たく、だが、二人を照らす陽光に今翳りはなく、ただ暖かい。マーテルが彼の背を覆うように寄りかかり、ぐるりと彼の首へと腕を回した。
「マーテル、いつもすまないね。お前がいなければ、私は何ひとつまっとうに出来そうもない」
 ユアンの言葉にマーテルが首に回している腕に力を込め、肩に額を当てた。
「ユアン、止めてちょうだい。私も同じなのよ」
「では、私と一緒にあの子の家に行ってもらえるかな。お前とおそろいの髪飾りをお土産に買ってきた」
 そこで、ユアンは軽く咳払いをして、彼の表情を不安そうに見るマーテルへと向き直った。マーテルは再び瞬きした。
「ついでに、あの子の結婚式の予定をゆっくりと聞かせてもらおう。ミトスとは、もう一度今後の予定について話し合ってみるつもりだ」
「ユアン……、私のわがままを……」
「式まではほんの二ヶ月。これは私のわがままだ。ミトスも理由を知れば、決して否とは言わないはずだ」
 彼の肩に触れるマーテルの髪からは、レンゲ草とリンゴの花の香が漂う。ユアンはマーテルの背に流れ落ちる髪を指先でゆるりと梳いた。春の日は丘の向こうへと沈んでいく。風に弄ばれるように、マーテルの髪が夕日の影へと伸び、その先に見える希望へと繋がっている。
 戦さのために生きているのではない。来るべき平穏を勝ち取るために歩んでいる。輝ける未来へと向かう糸口はごく近くにあるのかもしれない。穏やかな春風に吹かれ、ユアンはマーテルの腕を取ると、村の中へと向かう緑の小道を歩き出した。
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