クルシス 十二ヶ月

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如月

 すぐそこまで春が来ているとこっそり教えるように日が差したかと思うと、にわかに空はかきくもり、あげくの果てに雪がちらつき始めた。人影のほとんど見えない山道は、日中の気温に南向きの道は霜が解けて泥に足をとられ、北側の道は降り積もる雪と凍りついた霜で滑りやすくなっていた。先頭で道を確認しているはずのクラトスの姿は見えず、ときおり、ぱきんと小枝が折れる音や、かちゃりと剣がぶつかる音が小さく耳に入った。
 前では、心配性の弟が姉の手をとってゆっくりと歩いている。しんがりで、背後の気配を調べながら歩くユアンに、うつむき加減のマーテルの吐く息が白く広がるのが見えた。
 道はこの先もどんどんと高度をあげ、飛竜のいる旅籠へと達するはずである。しかし、人の生活の気配は感じられず、集落まではほど遠いことがわかった。日が落ちるまでには人家の近くへとクラトスと相談をしてはいたが、急速に日が翳り、きりたった崖際に作られた道は夕闇の中でいっそう歩きにくくなってきた。
「ミトス」
 彼は前を歩く姉弟に声をかけた。見事な金髪が夕暮れどきにも明るく広がり、彼の方を振り向いてミトスが立ち止まった。一緒にマーテルも足を止め、そのまま崩れ落ちるように道脇に腰を下ろした。
「ユアン、そろそろ休む場所を探した方がいいね」
 彼が口を開く前にミトスが提案してきた。
「ああ、私もそれを言おうと思っていた」
「姉さま、ユアンとここで待っていて。僕がクラトスを追いかけて、上の様子を見てくる」
「ごめんなさい」
 マーテルはまた白い息を長く吐いた。
「ううん、僕が急がせたせいだよ。今朝からろくに休みをとっていない。少しだけ待っていてね」
 そういうと、ミトスはあっという間に道を駆け上っていった。マーテルは暗がりに消え去る弟の姿をしばし追いかけ、それからゆっくりと立ち上がろうとした。二人の姿をぼうっと見ていたユアンは、慌ててマーテルへと近づき、その手を取った。
「マーテル、無理しないで。ミトスの言ったとおりだ。私も疲れたから、ここでしばらく休憩としよう」
 北向きの斜面に作られた道は一気に下がった気温のせいで、すでに凍り始めていた。目の前でユアンがすんでに転びそうになると、緊張した表情を浮かべていたマーテルがようやくくすりと笑った。ユアンはマーテルの横へと腰をおろした。夕闇はなおも濃くなり、マーテルの白い顔が目の前にぼおと浮かび上がり、こんなに歩いてきたにも関わらず、青白いままだった。
「マーテル、疲れただろう」
 ユアンはこのところずっと体調の良くないマーテルを労わるように、肩に手を回した。
「大丈夫よ。私ったら、本当にみんなの足手まといね」
「そんなことは全くないさ。さあ、これでも食べてごらん。空腹だと、つまらないことばかり考えてしまう」
 ユアンは最後の村でこっそり仕入れた氷砂糖をふところから取り出した。
「そんな貴重なものは、もっと困ったときまでとっておいてちょうだい」
 マーテルが首を横に振った。
「今がそのときさ。君がこんなに疲れているのに、放っておけるわけないだろう」
 ユアンはかじかんだ指で透明な粒を取り出すと、マーテルの口へと押し込んだ。マーテルはそれ以上何も言わずに彼に寄りかかると、おとなしく氷砂糖を口にした。
「マーテル、すまなかったね。君が大切にしていた人達を皆見捨てる形になってしまった。お別れを言いたいという君の願いを聞き届けることができなかった。あの小さな女の子に春の月の祝いを贈ることもできなかった」
 マーテルはその言葉を聞くと、彼の胸に顔を埋め、小さく答えた。
「いいの。別れなくてはならないことは、いつでも理解しているつもりよ。あなたが悪いわけではないわ。私も一緒に決めたことだもの。あなたが気にしてくれてうれしいけれども、大丈夫よ、ユアン」
「だが……」
「あなただって、あの素朴な人達の行く末をすごく気にしていることを分かっているわ。それを私に気取らせないようにと、あなたが気をつかってくれていることが申し訳なくて。優しいあなたが、私以上にがっかりしているのに」
 一昨日の夜、四人が定宿としていた村を出る決断を彼が下した。それはいつもの通りのことだ。利と不利を、安全と危険を、現在と未来の可能性を並べ、分析するのは彼の役割だし、そのとき個人の思いなど入らないのは当たり前のことなのだ。戦さでは個人の感情は最も後回しとなる。思い出せないほど昔から戦うことが義務であった彼やクラトスはそうするようにと教えられきた。今や、何の意識もせずに彼は個人の思いを切り捨てている。
 マーテルが気にするようなことは一切ない。
「何を言い出すのだ、マーテル。これはいつものことだし、私自身の決定だ」
 ユアンが答えると、マーテルはじっと彼の顔を覗き込んだ。
「そうね。でも、ユアン。私だって同罪なの。だから、優しいあなた。私にもあなたを慰めさせて。そうしないと、私、……。何のために、あなたの傍にいるのか、わからなくなってしまう。私、あなたのために何かできないかしら」
 マーテルの悲しそうな訴えに、ユアンははっとして腕の中の大切の人を抱きしめた。
「マーテル、君が側にいればそれで十分だよ。君がいてくれるから、私は戦える。君がいるから、私は私でいられる」
 冷たい風にマーテルの長い髪がばらりと靡く。いつも以上に青白く見えるマーテルの頬が寒風の中、ほんのりと赤くなり、印象的な唇の紅色と共に、彼女の美貌を引き立てている。
 ユアンはふっくらと柔らかな唇にほんの重ねるだけの口づけをした。


 甘い口付けは薄暗く物音しない山道に響く抜刀の音で遮られた。
「ユアン、姉さまを見ていてと言ったけど、こんな状況で何をさかっているのさ」
 背後からユアンの首筋に冷たい刃が当てられた。ユアンが硬直して背筋を伸ばしたままにしていると、彼の腕の中にいたマーテルが例によってのんびりと弟をたしなめた。
「まあ、ミトス。およしなさいな。ユアンはまだ何もしていないわよ」
「いや、今確かに姉さまに襲い掛かろうとしていた」
 語気荒く叫ぶミトスをクラトスが押さえつけて宥める。
「ミトス、いくらユアンでもこんな山道でマーテルに手出しをするほど、抜けてはいないだろう。もう後、小一時間で集落に着くはずだ。上に灯りが見えた。文句は旅籠に着いてから言え」
 ユアンは頭を抱えながら考えた。彼の仲間は、いつだって言葉の使い方を知らなさすぎる。
 マーテル、『まだ』はないだろう。ミトス、私はマーテルの婚約者なのだから、こんな場所で『さかったり』、『襲い掛かる』わけがない。クラトス、『いくらユアンでも』というのはどういう意味だ。『抜けて』いて悪かったな。
 こんなだから、結局、彼がいつも事を決することになるのだ。憤然と立ち上がったユアンは仲間たちを見渡すと、いつものように決然と伝えた。
「状況が分かって良かった。凍える前に集落に行こう。マーテルは私が背負っていこう。クラトス、悪いが荷物を持ってくれ。ミトス、すまないが、荷物からカンテラを出して、道を照らしてくれ。さあ、マーテル、私につかまって」
 まだ、いい足りなさそうなミトスもクラトスがさっさとユアンの荷物を担ぐと、しぶしぶ灯りを付けた。
 冷え切った夕空に、一番星が瞬き、いつの間にかちらついていた雪は止んでいた。彼の背中にかかる愛しい人の重みを感じ、ユアンはマーテルを背負うとゆっくりと歩き始めた。冷たく吹きおろす風も、背にある重みに汗している身に心地よい。
 そのときは、すぐ向こうにまだ春の訪れが必ずあると、彼も、そして、他の仲間も信じていた。
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