クルシス 十二ヶ月

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睦月

 その日は新年にはまことに相応しくない一日だった。先月から忙しく動き回っていたユアンは年末に引き込んだ風邪をこじらせ、高熱は引かず、朝から悪い咳ばかりしていた。年明け早々の祝い事の手伝いをしていたマーテルは、そんなユアンを心配していたせいだろう。凍った道を急ぎ戻る途中、雪に隠れた氷の上で足を滑らせ、足首を挫いてしまった。年末まで隣国の動静をうかがっていたクラトスがノイシュと共に戻ってきた日は吹雪だった。道かどうかも分からない白い世界で、クラトスは崖から落ち、胸をしたたかに打ったらしい。本拠地まで戻っては来たが、さしものクラトスも今朝は部屋から出てくる気配はなかった。


 一人元気なミトスはノイシュと一緒に炉にかけてある鍋をぶつぶつと文句をこぼしながら、かき混ぜている。
「まったく、新年ぐらい、何も悩まずに過ごしてみたいものだよね」
 ノイシュはミトスのその言葉に力なく、くうんと鼻声を出した。台所は一人と一匹だけだった。マーテルは動けない上にユアンの側につきっきりだ。クラトスも自分の部屋にこもっている。
「だいたい、ユアンなんてそこらに置いとけば元気になるに決まっているだろう。あんな寒い部屋でユアンの咳を浴びていたら、姉さまがあのたちの悪い風邪を貰っちゃうよね」
 ミトスはまたノイシュにぼやいた。ノイシュはくうと小さく鳴いたが、ミトスの意見に賛同しているようには見えなかった。
「分かったよ。まあ、あいつも確かに先月は忙しかった。だけどさ、首都まで往復するのに、途中の旅籠で休まないのがいけないんだよ。あんな寒さの中、夜っぴて一人で歩くなんて、狂気の沙汰だよ。いくら、姉さまを待たせたくないからって、何を急いでいるのやら」
 ミトスは乱暴に鍋の中をかき混ぜた。口では文句は言ってみたが、ユアンを急がせたのは、この自分であることは承知していた。いつだって、仲間を犠牲にしてしまう。ユアンが時間を稼いでくれたことで、どれだけ事がうまく進んだか、一番良く分かっているのはこの自分なのだ。だが、ミトスはいつも将来の義理の兄へ素直に感謝を表わせた例がなかった。口の端までのぼるのに、何故か、言い出そうとすると機会を失ってしまうのだ。
 それがクラトスだったら、ユアンに向かってごく自然に礼を言うのに。姉さまやクラトスになら、自分だって素直に感謝を表せるのに、とミトスはため息を落とした。
「あいつのことだ。自分で変な薬を調合して余計に具合が悪くなるかもしれないからな。せめて、風邪薬ぐらい作ってやらなくっちゃね。クラトスは今日は動けないだろうし、姉さまは足が痛いから立てないし。あれ以上、悪化させると、こっちが迷惑だ」
 ミトスは憎まれ口をたたきながら、ぐつぐつと煮立った鍋を慎重に炉から下ろすと、丁寧に蓋付きの陶器へとその液を漉した。手が火傷しそうなほど熱い陶器を両手で抱えもち、しばし考えてから、ミトスは再びそれを置いた。部屋の中は都合の良いことに彼一人しかいない。
 ノイシュがきょろきょろと扉とミトスを比べ、ミトスを見上げた。ミトスは息を吸い込むとノイシュに向かって話しかけた。
「ユアン、大丈夫かい。薬を持ってきたよ」
 これじゃあ、感謝していないみたいに聞こえるかな。ミトスはぼそりとノイシュに語りかけると、利口な動物はくうんと首を傾げた。
「ユアン、お前の努力にはいつも助けられているよ。この薬を飲んで、ゆっくり休んでよ」
 こんどはどうだろう。さっきよりはいいかな。ミトスはまたノイシュの顔を覗き込んだ。ノイシュはくうと鳴いて、ぱたりと尻尾を振った。
「ユアン、ありがとう。ユアン、いつも感謝している。ユアン、頼りにしているよ。ユアン、大好きだよ」
 ミトスは半ば妬けになって、矢継ぎ早に言葉を繰り返した。背後の扉がかすかに開いて、静かに閉じられたが、ノイシュは賢くもじっと動かなかった。ふうと大きく息を吐くと、ミトスは目の前で湯気を上げている容器を抱えた。
「ノイシュ、お前はクラトスの様子を見ておいで。僕はユアンのところへ薬を持っていくからね」
 扉を開けると、ノイシュは何か分かったかのようにミトスの横でパタパタと尻尾を振り、指示されたクラトスの部屋へと向かっていった。今度はミトスも真っ直ぐに目的の部屋へと向かった。扉を軽くたたいたが、中から返事はなかった。そっと開けると、静かにと小さな声がした。
 奥の寝台に姉が寄りかかるように寝ており、体を半分起こしたユアンが彼女に毛布を掛けていた。ユアンはミトスに向かって笑いかけた。
「マーテルは今寝たところだから、起こさないでやってくれ」
「あ、ああ、ユアン。あの……薬だ」
 姉を起こしてはならないからと胸の内で言い訳をしながら、結局、ミトスは陶器の器をユアンに差し出しただけだった。
「これはありがとう。薬湯か」
「姉さまにうつさないように、早く治してよね。お前が病気だと皆が迷惑する」
 つっけんどんに答えるミトスにユアンは再び軽く苦笑いすると頷いた。姉の髪に伸ばされているユアンの手を凝視するミトスは、ユアンの青い目が刹那明るく輝いたことに気づいていない。


 全ての始まりである月は、また全てが白く覆いつくされている。大地の中で、その上に生きる人々が知らぬ内に、来たるべき春への準備がこっそりと始まっている。ほんの気まぐれな風が積もった雪を落とすと、裸に見える枝には固く小さな芽が顔をのぞかす。白く凍りついた枯葉が一陣の旋風に巻き上げられると、黒い土の表面にわずかにのぞく緑が見える。
 ユアンは窓の外を見ながら、熱くてほろ苦い薬を飲んだ。
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