迷走

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極光(オーロラ)

 冬も終わりに近くなったせいか、日がある間は暖かく感じられるようになった。穏やかな日の真白い雪原は広く、遠くまで見渡せ、動くものは何も感じられない。
 昨日のぶり返したような寒さで、雪原の表面は固くしまって凍りつき、誰の跡もない雪原を歩くのはさほど困難ではない。全てが凍りついた真空のような眺めを楽しむため、このまま、遥か果てに見えているこの雪原を取り囲む峰々まで飛んでいってもいいかもしれない。
 しかし、今日はこの緩やかに波打つ平原の大理石のような輝きと、周囲の白冠の峰々の神々しさとは裏腹に、彼が佇む崖の遥か先には、この白さの中にそこだけ黒煙がふきあがり、激しい炎が全てを焼き尽くそうとしていた。その光景を凝視する彼の背後では、さきほどまで部下達が基地の撤去に忙しくしていた。手馴れた者による退去は素早く、今や、彼の命を待つ副官と数人の部下しか残っていない。
「クラトス様、ご指示通り、すべて完了いたしました」
 黙って動かない彼に向かい、副官が恭しく声をかける。
「ここを閉じたら、お前たちは先にもどれ。簡単な報告をユグドラシルへ上げておいた。おって、私から詳しく伝えると言付けてくれ。私は寄るところがあるので、遅れる」
 クラトスの指示に黙って頭を下げ、残っていた者たちは基地として利用していた洞窟へと退く。彼も共にもどり、事の顛末を報告すべきであったが、眼前の光景が起きた今、急ぐことは何もなかった。結末は煙となって天へ昇っていく。報告なぞ必要ない。
 あの美しかった町はもう存在しない。そこで生を営んでいた者たちの名残は一つもない。長きに渡って、親から子へと伝えられてきた宝飾の技も、篤く敬われてきた祈りの場も、凍てつく寒さの中旅人を癒してきた古びた宿も、全てが灰燼となった。
 

 その場所は海から隔絶された大きな島の平原にあった。冷たき女神の力で、一年のほとんどを真白な雪に覆われたそこに人が住み着いたのは、いつの頃なのだろうか。滅多に人も生き物も訪れないはずのそこを住居と定めた者達の話はもうどこにも残っていない。
 長い年月は隠されたいたはずの場所を明らかにし、人の好奇心は普通とは異なるものへと向かい、これまた誰も気づかないうちにそこは人の口から口へと伝えられる。そのうちに黄金郷とも桃源郷とも言うべき伝説の地となる。そうなれば、幻の地を求める向こう見ずな者達が現れ、やがて、新天地へと訪れ者たちにより、ひっそりとした隠れ里は堂々と繁栄を誇る町へと変貌した。
 人の営みの不思議は、全ての秘密が露にされ、特に驚くことなぞないはずのそこがあたかも秘すべき何かがあるかのように見せることだろう。雪の精霊の伝説に長い冬に培われた職人の技が融合されて、一大商業地として発展しながらも、独特の伝説が外からの旅人を引き付け、町の賑わいをさらに確固たるものにした。
 奢れる商人達は、自分達の出自である海の外の王国の力から、気づかれないうちに飛び出していく。あるいは、王国の傘下にあるふりをしながら、他国との協調も忘れない。やがて、持てる財力とその位置する所以から、独自の文化が生み出され、それは強い連帯感に裏打ちされている。商人にありがちな独立独歩の気風は、人間世界での秩序であった王国の支配からも逃げ出し、また、クルシスが操る宗教の呪縛からも解き放たれる。
 当初、それはとるに足りない出来事のはずであった。たいした影響力もないちっぽけな閉じた世界の間は、マーテル教が軽くみられたところで、信心深い者達から穢れた町と見らるだけであった。だが、王国の財政をも揺るがすだけの力を持てば、看過するわけにはいかない。しかも、商人達が己の財を守るために雇い始めた傭兵たちは、その財力を背景に王国の正規軍をもしのぐ精鋭部隊へと変貌をとげる。
 いつも通りに宗教による懐柔を王国の背後から試みていたクルシスもついには、クラトスが率いる部隊で王国軍のてこ入れを行い、武力による脅しへと移行する。一旦は大人しく引き下がったかに見えていたフラノールは、知略に富むその力を政治の世界へと注ぎ込み、ハーフエルフに背後から操られていたはずの中枢は平等と理想主義という言葉のもと、新参者へとその権力を徐々に奪い去られていった。
 権力闘争が始まりだせば、表面では愛と平等を標榜する宗教は、途端に宗旨替えをし、実情を知らない盲信する民衆の力を背景に、自由へと暴走する異端者達への粛清が始まる。

 
 世界の交代と共に、究極の手を打とうと提案したのは、誰だったのだろう。考えるまでもない。ユグドラシルがにっこりと笑いながら、この世界からマナが失われる理由としては十分だろうと言ったことを忘れたわけではない。
 大罪を犯した町が滅び、女神の恵みが失われれば、その仕組みを全く知らない者にとっては、全ては神をないがしろにした非道な一部の人間のせいとなる。宗教はご安泰だ。
 ユグドラシルがまるでふと思いついたようにそう語ったとき、息をのみながらも、反対できなかった。失われるであろう多くの命への一片の思いやりさえ見られないその表情に、何かが間違っていると、これは我々が望んでいることではないと、言えなかった。
 よく知っていたはずの同志が全く知らない者へと変貌していくことを止められない。最初にそうと思ったのは、例のマーテルの名前を冠した宗教による世界の支配を言い出したときだ。さすがに、ユアンが反対を唱えたが、クラトスはミトスが一時の気の迷いから覚めるまで、まだ時間が必要なのだと考えた。以前と同じように、試行錯誤の上で互いの意見の食い違いは、埋まっていくものだと期待していた。
 しかし、再生システムが多くの人を巻き込む巨大な組織と併せて強固なものになるにつれ、ミトスの孤独の殻も、同じだけ固く冷たく厚いものにと変化した。
 ユアンがたまにため息をつきながら、ミトスの様子をそれとなく零すことに、口では彼を労わりながら見ないふりをしていた。それどころか、自らが許せないと思う数々の提案へ率直に異議を唱えなくなって、久しい。
 自分が剣を捧げた相手が消えてしまったことを、己が理想とした者が、粉々に壊れていくことを実感したくない。他人の理想を拠り所にした過去の自分を後悔したくなかった。


 自らが招いた結果が、この無残な状況だ。クラトスは何からか追われるように、黒煙のあがる町に背を向けると雪原を歩き始める。
 平原に巻き起こった炎の惨劇が呼び起こしたのか、心の中まで凍らせるような冷たい風が突然吹き付けてくる。さきほどまで晴れ上がっていた白い絨毯は、いきなり薄っすらと積もっている雪を舞い上がらせ、周りはたちどころに視界を失う。まるで、何も存在しない世界へ放り込まれたように、ふらふらと目的もなく前へ向って歩き始める。
 この程度の寒さも、あるいは、人の営みから遥かな遠さも気にしない。とうに人であって人ではない身だから、この生き物が何も存在しないような場所には、却って相応しいかもしれない。人ではないのだから、取り返しのつかないことなぞないと、背後で起きたことも気にしてはならないのだ。
 しかし、無垢な白い世界はそれだけで純粋な存在であり、歩いていながら、己があってはならない黒い染みのように、感じられる。あのとき、ひどく冷たいこの雪の世界の結晶のように煌めいていた石を手にとったとき、もう、この世界にとって消せない汚れとでもいうべき存在になってしまったのかもしれない。


 気づけば、雪原に背をむけたまま、凍てつく岩場に座っていた。かすかに小石が踏みにじられる音に自分以外の存在に気づく。
「クラトス、探したぞ」
 背中に暖かく感じるマナを受け付けまいと、体を強張らせる。そんな彼の姿に事務的にユアンが告げる。
「ユグドラシルが貴様を呼んでいる。正式な報告が欲しいそうだ」
「そうか、もう少ししたら戻る」
 振り向かず、答える。
「では、貴様が戻る気になるまで、私も付き合うか」
 ユアンが隣に座る。ここで立ち上がって逃げ出せば、さすがに子供じみているような気がして、黙っている。
 ユアンの視線が痛い。
「クラトスが責任を感じることはない。最後に、あそこへ神の怒りを落としたのは、私だ」
 ユアンの声が淡々と続く。
「貴様のためにも、もう少し交渉を長引かせたかったが、力不足だった。ユグドラシルも、教会もあの町が巻き起こす影響の大きさにひどく焦っていた。当たり前だ。あんなお仕着せの宗教でいつまでも人々をこちらの思い通りに動かせるわけがない。我々もそうだが、人なんて現金なものさ。その日を生き延びようとしているときは、何でも縋りたかった。私だって、毎日、教会で有難い聖句を祈っていたさ。だが、少しでも楽になれば、聖句の意味は忘れ、さらに次の物が欲しくなる」
「町の人たちが望んだのは、ほんのわずかな自治だけだった。何も自らの命を代償に願うほどのことではなかった」
「クラトスの言うとおりだ。それどころか、この張りぼての宗教を取り繕うための代償としては、大きすぎた。貴様の気持ちは分かっているつもりだ。側で見ていれば、いっそつらいだろう」
「許されることではない」
「そのとおりだ」
「ユグドラシルに言わせれば、きれいごとになってしまうのだろうな。安っぽい感傷かもしれない」
「そんなことはない。他に手段があったはずだ。クラトスがずっと変わらないでいてくれて嬉しい。我々は遠くに来すぎた。ユグドラシルを……ミトスを、こんな彼を見ることになるとは、思ってもみなかったな」
 ユアンの方を見れば、わずかに自ら吐き出した言葉に戸惑っているのが分かった。
「ユアン、気にしなければならないことは山ほどあるのに、私のことまで心配させて悪かったな。まだ、折り合いがつかないだけだ。いつものことさ。そもそも、お前の手を汚させるつもりはなかったのに、後始末までさせている」
「いや、近くで起きたことを全て見ているクラトスこそ、大変だ。私なぞ、人々の苦しみも嘆きも目の当たりにすることなく、ただそこにある赤いボタンを押しただけさ」
「お前はその重さを知っている」
「貴様こそ……」
 ユアンの肩に額を押し付け、彼とは別の場所でずっと気を使っていたはずの恋人に寄りかかる。
「悪かった。逃げてはいけなかったのに、背を向けてしまった。自分のしたことを見なくてはいけなかったのに、馬鹿なことをした」
 ユアンが彼の肩に手を回し、額に優しく口付けを寄越す。
「私もお前と一緒に己のしたことを心に刻むさ」


 背を向けていた方へと体を巡らせば、さきほどの風はおさまり、遠く町が在った場所から立ち上っている煙はすでに細くなっていた。白く細く天へ向っていく悲劇の跡がミトスが引きこもっている奥まで届けばいいのに。だが、このままでは届くわけがない。何も見ずにいる彼に、確たる理由も知らぬまま失われた多くの命と突然その時を断ち切られた町の悲劇を伝えることこそ、今の自分のすべきことであろう。
 クラトスの動きに合わせ、ユアンの手が彼の腰に回り、支えるように力が込められた。
「もう、日が暮れるな」
 冷え切った天空は、地上の出来事とは何ら関係なく、どこまでも澄みわたり、地上で見るより遥かにくっきりと星が見える始めた。
「ああ、もう少しここに居てもいいだろうか」
「クラトスがすきなだけ……」
 言いかけた言葉を止め、ユアンが指し示す方を見る。
 一面濃紺のベルベットに光が差し掛けたように、たくさんの星が輝き始めたそのとき、それは空の奥から突然投げ出された網のように広がった。最初は目の錯覚かと思うくらい僅かに光るだけだった。だが、それは春風に揺らがされる薄絹の布ようにはためきだした。天空に広がる光のカーテンは緑に、赤に、白に、ピンクにと様々な色へと変化しながら、緩やかに水に落とされた薄墨のように広がり、縮まり、震える。
「オーロラだ。こんな日だというのに。この地に降りて長かったが、最後の日に見られるとは皮肉だな。確かにこの時期は美しく見えると町で聞いた。お前と一緒でよかった」
「天も惜しんでいるのだろうな」
 ユアンが彼の肩を抱きながら、彼の耳元で囁く。神の祝福を現すと言われているオーロラは藍色に染め上げられた夜空を神秘の幕で覆い尽くす。
 その明るさに、クラトスの血のように濃い琥珀色の瞳が様々に色を変える。オーロラを背に輝かせて、彼を見つめるクラトスの真剣な表情がいつも見慣れているにも関わらず、彼の胸を熱くする。何も手入れをしていない少し乱れた髪の毛先が彼の顔をくすぐる。
「クラトス、見ないのか。私の顔を見ていても、オーロラは見えないぞ」
「いや、お前の目の中で輝いている。その方がずっと美しい。……」
 クラトスが語るその背後にまるで彼の羽のように薄水色のオーロラが広がり、真珠色の煌めきで空を彩る。


 オーロラだけが舞うその場所は、すでに何も残っていないが、つい数日前の町の華やぎを思い出させた。さきほどまで何もない淋しい岩に囲まれた頂きが輝く様は、失われた町がやがて昔日のように蘇ることを思わせた。
「ユアン、来てくれてありがとう。確かにしなければならないことは、まだまだ、あるはずだな。危うく、放り出すところだった」
「クラトス、それは私もだ。私もお前に会わずにはいられなかった」
 ユアンの言葉に立ち上がると、座っているユアンに向かって手を差し出す。黙って重ねてくるユアンの手に軽く口付けを送り、手を引けば、ユアンも彼に向いあって立ち上がる。無言で彼の背に手を回すと、オーロラの光に僅かに色を変えながら、いつもと同じ想い溢れた微笑みをユアンがこぼす。
 ユアンは、彼を見つめるクラトスの腰に片腕をまきつけ、己を覗き込むその顔をゆっくりと引き寄せる。さきほどまでとは違い、その琥珀色の目が輝き、再び彼の愛する魂が宿ったことを知る。二人はゆっくりと顔を近づけ、吐く息を感じながら、額を付け、互いの意志を確かめるように長い間目を覗き込む。
 嘆きの地を鎮めるかのように輝く極光が、今は何も語る者がいない場所へ、天上で何も見ようとしない同志へ、語る必要のない互いへ、何がしかの癒しを与えてくることを願う。天空の舞が消え行くそのときを何も語らずに待つ。

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