迷走

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白銀

 雪に埋もれた冬、昼間も薄暗い室内には、赤々と炉に火が燃え、上に架けられた薬缶からは揺ら揺らと湯気が立ち上っている。鄙びた里の宿は、ウィルガイアの変わらぬ人口照明と異なり、どこかほっとさせるものがあった。
 このところ忙しさに紛れて、すれ違っていることが多かった。たまたま、地上に降りたときに見かけた宿を思い出し、恋人に声をかけた。珍しくユアンも予定が入っていなかったらしく、あっさりと出かけることになった。
 深く白い雪に埋もれた宿は、村から少しはずれた場所にあり、静かな雰囲気はことのほかユアンを喜ばせた。
 案内された部屋は炉の近くに古びたソファと小さなテーブルが用意され、奥に素朴な木の寝台が置かれていた。さしてすることもない二人は、テーブルに用意された茶を楽しむ。それが習慣のクラトスが、剣を抜いて磨いていると、横でユアンがなにやら荷物を探り始めた。いつものように、本でも取り出すのかと思っていると、古びた小鍋と怪しい黒い粉が出てきた。
「ユアン、何をする気だ」
 いぶかしそうにクラトスが尋ねると、ユアンがさも当然のように答えた。
「雪が多くて寒いと聞いたから、温まるための薬だ」
「今日が例の日だからと言って、無理に作るな」
「ホット・チョコレートくらい、すぐできる」
 言い出すと聞かない恋人の言葉に、クラトスは肩を竦めて、再び剣を取った。ユアンはそのまま炉に向かうと、手馴れた仕草で小鍋に湯と粉を放り込んだ。
 

 炉の端にのせられている小鍋からは甘い香が漂っている。まるで、薬を作るかのように覗き込んでいたユアンが何かに気づいたかのように、顔を上げた。
「どうしたのだ。ユアン」
 ちょうどほどよく炉の熱が届く場所に置かれたソファの上で、本を読みながらも、こっそりと恋人の横顔を観察していたクラトスが声をかけた。
「いや、今ミトスの声が聞こえた気がした」
「ミトスの声か。しかし、ここはウィルガイアからずいぶんと離れている」
「ああ、気のせいだろう」
 彼でなければ気づかないだろうわずかな躊躇いの後、ユアンが返事をした。何か気になっていることがあるに違いない。今日という日に、自分以外のことに気をとられて欲しくはなかったが、そこまで望むには、互いに多くのことを抱えたままだった。
 もう一度、手元の本に目を落とそうとすると、ユアンが立ち上がった。
「ユアン、どうした。ミトスの気配でもするか」
「いや、いっそ気配を感じられれば、安心できるのだが……」
 ユアンのつぶやきは日が落ちかけて更に暗くなっていく部屋に吸い込まれた。
「ウィルガイアを離れたくなかったのなら、そう言ってくれればよかったのだ」
 自分でも、声が強張っていると思った。
「クラトス、すまない。決して、そういうつもりで言ったのではない」
 だが、ユアンはそれ以上は口にしなかった。言うべきであると思わなければ、頑なまでに何も語らないから、クラトスも問い詰めるようなことはしない。それはお互い様だ。
 だが、ミトスが気になっている上に、言えないことは何だろう。また、マーテルに纏わることだろうか。それとも、最近、ミトスが作ろうとしている、ハーフエルフの組織のことだろうか。炉の火に照らされて、白い顔がくっきりと影に彩られ、さらに憂愁にとざされているかのように見えた。
 大切な恋人がまるでこの部屋に一人きりでいるかのように立っている。とうとつに、クラトスは部屋から飛び出したくなった。こんな思いをしてまで、ユアンと共にいるべきなのだろうか。彼では、何の支えにもならないのだろうか。
 ぱさりとクラトスの膝から滑り落ちた本の音に、ユアンがクラトスの方を向いた。とたんに、焦点の定まらなかった青い目が心配そうにゆらめき、ユアンがクラトスの前に跪いた。
「クラトス、勘違いしないでくれ」
「……」
「今日、貴様から誘ってもらったことはとても嬉しい。貴様とふたりきりで居なければ、ずっとやりきれない思いをしていただろう。だから、気にしないでくれ。クラトス、怒っているか」
 拾った本をクラトスの膝に置きながら、ユアンがゆるりと立ち上がる。少しひんやりしている指先がクラトスの頬をなでた。いつでも彼よりも低い恋人の体温に、クラトスはいくばくかの寂しさを感じた。もちろんあろうはずもないことだったが、彼がユアンを思うほどには、ユアンが彼への興味を持っていないと教えているようだった。
「そんな顔をするな。私のクラトス」
 クラトスの考えを見透かしたかのように、ユアンが彼の額へと唇を寄せた。こうしてまた、話は逸らされ、クラトスの心の澱みは静かに沈殿していく。いつまで、これを続ければよいのだろう。いつまで待てば、ユアンはその全てを彼に委ねてくれるのだろう。
 飢えた獣のようにユアンに飛びつき、幼い頃のように叫びたい衝動に駆られた。
「いや……。ユアン、何か焦げ臭いぞ」
 ユアンの愛撫から顔を背けようとしていたクラトスが叫んだ。
「え……。あ、忘れていた」
 慌てて、ユアンが小鍋へと駆け寄り、スプーンで中身をかき混ぜた。
「これだから、今日がセント・ヴァンレタインの日だからと言って、わざわざ作ることはないと前々から……」
「これぐらい、良いではないか」
「ほら、鍋を見てろ」
 こんなことだと思って、わざわざキッチンなど使えない宿屋を選んだのに、なぜ、やっかいなことをしようとするのだ。たかだか、ホット・チョコレートと思って、ユアンをなめていた。
 あちちと叫びながら、マントの端で起用に鍋を持ち上げるユアンを見れば、さきほどの言葉はなかったかのようだ。ふいに顔を見合わせ、二人は笑い出した。
 今、このとき、ユアンと二人で過ごせるのに、これ以上何を望むというのだ。クラトスは、真剣に小鍋の中身をカップへと移すユアンを見る。細く長い指先が器用にカップを傾けている様子に、別の美しい指先を思い出した。


 何もない荒れ果てた台所で物音がしていることに気づいた。夜もだいぶ更けたのに、何者だろうと覗くと、ほっそりとした彼女が立っていた。
「何をしている」
「あら、クラトス。さきほどはありがとう」
「え……」
「私が不養生で倒れたのに、ミトスったら、またユアンに喰ってかかっていたでしょう。あなたがミトスを宥めてくれたのよね」
「いや、……。気づいていたのか」
「ふふ……」
 マーテルは慣れた手つきで薬缶を炉の上へとかけた。「皆、疲れているでしょうから、お茶でも入れようと思ったのよ」
「マーテル、お前こそ、まだ本調子ではないのだから、休んでいろ。私が替わりに入れよう」
「私が出来ることなんて、限られているから、これくらいはね」
「そんなことはない。それに、あいつがまた心配するぞ」
「そうね……。ユアンは優しすぎるから」
「お前のことが大切なのだ」
「ええ……。ごめんなさいね、クラトス」
「何のことだ」
「私たち、あなたに頼ってばかりですもの」
「お互い様だろう」
「ねえ……」
「クラトス、あの人のこと、ずっと見守ってあげてね。自分につらいことばかり選ぶから」
「お前がいるだろう」
「そうね……。でも、お願い」
「ああ、わかった。マーテルに頼まれては嫌とは言えない」
「ありがとう、クラトス。さ、もうすぐ出来るわ。とびきりにおいしく入れるわね」
 白い指先が欠けたカップをきちんと並べていた。そんな些細な動作でさえ、マーテルがすれば優雅に見えた。その細い指先にこっそりと絡められる、やはり優美な長い指が思い浮かんだ。
 透明な笑みを浮かべる彼女は、今思い起こせば、この先のことがわかっているかのようだった。一言、何か不安があるのかと尋ねてやれば良かった。だが、ユアンを思いやる優しい微笑の前に、その向こうに見えるユアンの彼女への眼差しを思い出すと、彼はゆるりと目を伏せて、立ち退くだけだった。



 ユアンから差し出されたチョコレートは、熱くクラトスの舌を焦がし、過去の思い出のようにほろ苦かった。雪の降る町での遠いできごとは、互いに語られないまま過ぎていく。
 ふんわりと積もる雪を見るかのように、ユアンが窓の外へと目をやった。その表情はいつも穏やかで、愛しい者が抱えているはずの内心の葛藤を彼に教えてくれたことはない。お前は一人で立っている。だけど、側に見守っている者がいたことも、今もいることにも気づいて欲しい。
 衝動的に背後から抱きしめる。
「珍しいな。クラトスから……」
 前に回した腕に触れられたユアンの手は、さきほどのチョコレートのせいか、普段より温かい。
「チョコレートの礼だ」
 耳元で囁くと、腕の中の者はくるりと向きを変えた。
「では、遠慮なく」
 ユアンの腕が彼の頭を引き寄せ、互いを貪るような口付けを交わす。そのまま、恋人達は寝台へと倒れこみ、灯もつけず暗い部屋の中で絡み合う。古いスプリングの軋む音と互いに漏らす荒い息や呑み込まれる喘ぎが部屋へと響く。さきほどの冷たい沈黙と溝を埋めるかのように、体を合わせ、やがて、穏やかな静けさが立ち戻る。
 二人にはやや狭い寝台の上で、ユアンの体温を直接感じる。疲れていたのだろうか。珍しく、ユアンが軽い寝息を立てている。さきほどまでクラトスの腰を強く抱きしめていた手は力なく滑り、どくどくと波打っていた互いの鼓動も静かになった。閉じられた深く青い目を残念に思いながら、真っ直ぐな鼻梁とそれに続く品のよい薄い色の唇へ口付けをする。とたんに、ぴくりと絵に描かれたかのように濃い睫が動いた。
 恋人を起こさないように、静かに手を伸ばし、毛布を体の下から引きぬく。ぴたりと寄せ合った体の上に毛布をかけると、クラトスはユアンの肩にもたれるように顔を寄せた。
 長すぎたときが、濃い霧のように立ちはだかり、過去の約束はそれが確かに在ったことなのかどうかも、判然とはしない。彼にとっても、ユアンにとっても、今ここに二人でいることが大切なことなのだと、クラトスは薄れ行く意識の中で己に言い聞かせた。



 しんしんと降り積もる雪は、流された赤い血も荒れ果てた大地も、そこにある全てを白く滑らかに覆い尽くす。甘いときが、互いの心のわずかな行き違いを、そこから生まれる深く大きな亀裂も覆い隠す。雪が溶ければ眼前に現れるものも、このときだけは忘れ去られ、全てを許す白銀がふんわりと美しく、見る者を惑わす。
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