迷走

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時雨時

 秋も深まったその日は朝から雨が降っていた。古びてペンキの剥げた窓枠がぎしりと音を立ててきしみ、薄汚れたガラス窓に涙のように水が滴る。その先は、薄い灰色に煙る雨雲が広がって、ガラスの汚れなのか、滲んだ雲の色なのか区別がつかなかった。
 クラトスは手にしていた本を下ろした。小屋の周囲に人の気配はなく、絶え間なく落ちる雨粒の音と小さく炎をあげる炉の熱しか感じられない。雨雲のせいだろうか。日暮れが間近になったと思うほど、小屋の中は薄暗くなっていた。分厚い本もほとんど終わりそうになっている。ずいぶんと時が立ったようだ。クラトスは小さなランプに火を灯そうと立ち上がった。窓から見下ろす景色は灰色一色に包まれ、陰鬱な晩秋の雨を強調する。
 ランプのほやの汚れが目に入った。クラトスは割れないように繊細なガラスの筒を無骨な指でできうる限り静かに持ち上げ、芯に火を点ける。これが不精な恋人なら、ろくにランプを見ずに、指先から無造作に火花を散らしては、ほやを割ってしまうのだ。脇で本を読むか、剣を磨いているクラトスは、その度に仕方なく立ち上がり、小さなガラスの破片が恋人の指先を傷つけなかったか、確かめねばならなかった。そんなうんざりする騒ぎも、無ければ無いで、逆に寂しさが増すだけだった。
 クラトスは小さな灯を背後に窓を覗きこんだ。指先で煤けた窓をぬぐおうとし、窓の汚れは指では届かない外にあることに気付いた。降りつける雨の雫が再び汚れの上を流れていった。ガラス窓に当てた指先は濡れもせず、ただひんやりとした感触を覚えた。


 たまには、ウィルガイアから出ないかとクラトスから言いだすと、ユアンは誘ってくれるなんて珍しいこともあるものだ、と大喜びで承諾した。二人の地位が地位だけに、ウィルガイアにいても、地上に降りても、周囲に人の目が絶えない。地上に降りる機会の多いクラトスは以前から目をつけていた人里離れた場所の山小屋にユアンを案内した。だが、目当ての山小屋に着いたとたん、ユアンは潜入させている配下と話すことがあるから、とクラトスが止める間もなく出ていってしまった。
 滅多なことでは二人で過ごせないから、と嬉しそうにユアンは答えたのは、気のせいだったに違いない。やはり、仕事でもないと彼と地上になど降りないのだ。崖上にある小屋からは裾野に広がる見事な森が一望できる。雨に煙った幽玄な眺めもユアンがいなければ、ものわびしかった。いっそ、このまま天上に戻ってしまおうかと、窓枠に落ちる雨を睨みつけては、本に目を落とし、剣の手入れをしては、雨雲の様子に気をもみ、数刻たった。
 暗くなってきた気配にユアンが遅いことにようやく思いいたり、今度は不安を覚える。
 ざあっと粗末な屋根の上を雨がたたく。クラトスは激しくなった雨脚に、そろそろ迎えに出ようかと思案した。ここは地上だ。クルシスが治めている場所ではない。見せ掛けとは言えども、人間が支配している場所であり、ハーフエルフには優しくない。何かやっかいごとに巻き込まれたのだろうか。クラトスの胸は嫌な予感にずきりと痛んだ。ユアンは遅くなるときは、必ずそう言いおいて出る。何も言わずに出ていったのだから、さほど時間がかかる用件ではなかったはずだ。
 焦燥は不安に変わり、クラトスは脇に立てかけている剣を手にした。そこで、彼はユアンが行く先を言わなかったことに気付いた。無防備に飛び出したところで、時間の無駄だ。さらに暗くなる外の景色に唇を噛み、だが、クラトスは再び剣を壁に立てかけた。
 扉を思い切り睨みつけたとたん、外に出ていた相手が帰ってきた。
「今戻った」
 案じていた恋人の声がし、たてつけの悪い小屋の扉がぎしと開いた。小さなランプは外からの入り込む風に揺れ、雨に濡れた恋人の影が亡霊のように背後に浮かび上がった。
「遅いぞ、ユアン」
 恋人の表情を見れば心配する必要などなかったことはすぐに分かったから、クラトスはいつもの調子で尋ねた。
「ああ、すまなかった」
 暗がりから部屋へと足を踏み入れたユアンはいつものように優雅に、クラトスに向かって微笑んだ。
「約束をしていた繋ぎの者とすぐに会えなくてな。貴様とこちらに来ると決めたときに、ただちに連絡をいれておいたのに、出向けば、これだ。まったく、もう少し優秀な者を配置しなおすつもりだ。クラトスとの貴重な時間が台無しだ。でも、これからは貴様とゆっくりできるから、許してくれ」
 ユアンは髪から顔へと滴り落ちる雫を払いのけた。夏の夜空のように濃い青い目が、ちりりと弾けたランプの灯りに輝いた。渋面を作っていたクラトスは、いつものことながら、その表情にあっさりと機嫌を直した。
「まあ、行き違いはよくあることだ。私のせいでお前の部下が責められるのもかわいそうだろう。それにしてもびしょぬれだな。すぐに着替えろ」
「まったく、出だしで時間を取られたら、すっかり雨がひどくなってな。酷い目にあった。貴様が待っているのだから、雨宿りもしていられないし。そうそう、川を渡ろうとしたらだな」
 濡れたマントをはずしながら、ユアンは何かを思い出したようにそこで言葉を切った。そして、罰悪そうに目を泳がせ、口を閉じた。その表情にクラトスはひっかかるものを感じながらも、濡れねずみの恋人を放っておくわけにもいかず、無言でタオルを渡してやった。
「あ、すまない」
 濡れたマントを受け取り、それもすっかり水を吸っている上着をクラトスが脱がせている間に、ユアンは長い髪をタオルで拭いていた。クラトスが上着の水を切ろうと軽く振ると、上着の隠しから、折りたたまれた紙片が床へと落ちた。
「おい、何か入っていたぞ」
 なんの気なしに、拾い上げたそれは、雨にすっかり湿っているとはいえ、何がしかの甘い香が漂ってきた。日頃ユアンが好んでいるものでもなければ、もちろん、彼が使っているものとは全く異なる。それは女物の香水に違いない。それならば、彼と地上で約束をしていながら、わざわざ会いに出かけた相手は女性なのだろうか。とたんに、クラトスの胸の中にざわりとするものが蠢いた。
「あ……、悪いな」
 いつも以上に素早く、ユアンがその紙を彼の手から取り上げた。
「ユアン、それは一体なんだ」
 手にした上着をもう一度やけになったように振りながら、クラトスは詰問した。
「いや、なんでもない」
 ユアンは手にした紙片をそのまま炉へと放り投げた。
「何が書いてあるのか見せられないものなら、ここに来るまでに始末しろ。そうでなければ、教えてくれてもいいではないか」
 クラトスはすぐには燃えずに端から黒ずんだ煙をあげる紙片を凝視した。
「いや、貴様が聞いても面白くはないだろう」
 ユアンはクラトスの手から自分の上着をとりあげると、丁寧に袖を伸ばし、炉の前に掛けた。
「お前の仕事だからな、面白いかどうかは、聞いてみないと分からん」
「クラトス、つっかかるな。大体、今の任務に関連するものなど、私が残すわけないだろう。そう、さきほど言いかけたことなのだ。たいした話ではない。この小屋に向う山道に入るために、森の入り口にある川を渡ろうとしたときだ。この雨だろう。すっかり増水して、ご婦人が渡れずに困っていてだな。他に人もいなかったものだから、私が手を貸してあげたのだ。そしたら、是非、お礼をしたいから、彼女の館を訪ねるようにと、その紙をくれたのだ」
 話をしながら、ユアンは濡れたシャツを脱ぐと、タオルで上半身を拭き始めた。いつもだったら目を奪われる光景ではあるが、クラトスはどうにか恋人から目を離すと、意見した。
「ふん、ずい分と調子のよい話だな。こんな天候の悪い日に、あの川の側で女性が一人で渡ろうすることなどあるだろうか。本当に偶然だったのか」
「おい、クラトス。その言い方はやけに含みがあるが、一体どういうつもりだ」
 ユアンはむっとした表情を浮かべて答えた。自分の任務に関することなら、眉毛一つ動かさないくせに、こういうときのこの男は分かりやすい。会ったことをごまかそうとするなら、もっとおたおたするに決まっているから、本当に偶然だったのだろう。だが、どうしてこんな人里離れた場所の川縁に女性がいるのだろう。何か腑に落ちない。
「どんな女性だったのだ」
 炉の前に今度はシャツを掛けていたユアンが振り向いた。
「お、クラトスが赤の他人に興味を持つなんて、ひょっとして妬いてくれてるのか」
「ユ、ユアン、私がいまさら、お前が出会う者達に妬くわけがなかろう」
「そうか。ま、貴様が焼きもち妬くほどのことはない。確かに美人ではあったが、貴様が気にするような者ではないな」
 少し鼻の下が伸びていないか。クラトスはユアンの顔をながめながら、首を傾げた。ユアンが美人というからには、相当な美女なのは間違いない。こんな鄙では滅多お目にかかれないだろう。なぜ、こんな場所にいる。考えなくてはいけない。
 とたんに、森の下でざわめきがかすかに聞こえた。クラトスが数歩動いて、脇に立てかけた剣に手を伸ばすと、制するように、ユアンが手を上げた。
「私の話の続きを聞け。貴様が考えていたとおりのことを私も考えた。この辺りを歩くのは、旅人か山の猟師だけだ。人目を引く女がうろつくような場所ではない。何も知らない旅人を引っ掛けるための道具に決まっている。あの女は私が一人で山を上がるのはしっかりと見ていた。だから、ここまでの間に、いくつかトラップを仕掛けておいた。おかげで、ますます貴重な時間を無駄にした上に、体の芯まで濡れてしまったのだ。だが、貴様との時間を邪魔されたくないからな。ここまでたどりつく者などいない」
 ユアンはぶるりと体を震わすと、炉の側へと近寄った。赤々と燃える炉の炎に、ユアンの白く均整のとれた体が照らされ、クラトスは思わず目を逸らした。
「ユアン、正体が分かったのか」
「当たり前だろう。貴様に声をかけるのならともかく、私に媚びたように声をかけるなんて、あんな美人のくせにそれこそ変だ。だから、すぐに怪しいと分かったのだ。ま、クラトス、安心しろ。私のトラップは滅多なことでは、人間には破られない。最初のトラップは山道を入ってすぐのところだ」
 ユアンが滔々と仕掛けたトラップの自慢話をする。クラトスはそれを聞きながら、満足そうに恋人を眺めた。愛しい者が自分の魅力をてんで分かっていないことは、たいがい頭痛の種でしかないが、こういうときにはそれも役立つ。彼がユアンを愛してしまう理由はこんなところにあるのかもしれない。うっとりとユアンの指示を聞く部下達を遠めで見ると、たまには、もっと己のことを知ってくれ、と文句の一つもつけたくなる。だが、周囲に与える自分自身の影響力に気づかれてしまったら、彼などユアンの相手にしてもらえなくなるだろう。そう思えば、今のままが一番かもしれない。
 無防備に炉の上へと伸ばされているユアンの手をとり、クラトスはユアンの細く長い指へと唇を寄せる。
「なあ、お前はずっとこのままでいてくれ」
 彼が雰囲気たっぷりに囁いたとたん、気のきかない恋人はクラトスの肩をつかんで、まじまじと顔を覗き込んだ。
「クラトス、気は確かか。すでに三千年同じままなのに、変わるわけないだろう」
 深いため息と共に、持ち上げたユアンの手の甲へ長い口付けをおくる。これをお付き合いと呼んでいいのなら、互いに恋人同士と認め合ってこの千年、まったくユアンは変わっていない。少なくともクラトスにとっては掛け替えのない恋人はほんの一握りの者にしか心を留めていない。ユアンの心のほとんどは三千年前の大義に捧げられたままなのだ。日々の彼の思考なんて、読めずとも分かってしまう。願いを託しそのまま時の狭間で凍りついている想い人の行く末と託された願いを叶えることが全てを優先している。生者で彼の心を掻き立てられるものなど、どこにもいない。そのユアンが関心を持つ数少ない生者に自分が入っていることを感謝しなくてはならない。
 だが、たまには我侭を言っても許されるだろう。彼だって、ユアンの心の中を後ほんの少しだけ自分に向けて欲しい。これ以上、馬鹿なことを言われる前に、自分の気持ちを伝える。
「前言撤回だ。少しは恋人らしい気分になってくれ」
 クラトスは麗しい恋人に囁き、濡れて濃い紺青の髪へと手を差し入れた。とたんに、何かに気付いたかのようにユアンもクラトスの頬に両手を当て、じっと彼の瞳を覗きこんだ。クラトスは抵抗もできず、薄暗い灯のもと、紺碧にも見える瞳に囚われる。ユアンは、ふうと大きく息を吐きだすと、クラトスの首へと腕を回し、長く熱い接吻を与えた。
「クラトス、貴様と一緒のときはいつでもそうだ。貴様こそ、もう少しその気になって欲しいものだな」
 互いに唇を求めながら、ユアンが不服そうに呟いた。炉の炎は、ぴたりと触れあう二人の体をさらに熱くさせる。
「ユアン、その気にさせてみろ」
 クラトスが挑戦するかのように、ユアンの耳元に囁いた。
 ユアンはにこりと笑うと、固い抱擁を解いた。恋人の手は慣れた仕草でクラトスのマントをはずし、腰のベルトを緩める。がちゃりと床に落とされた剣帯の上に、濃紺の上着が乱暴に放り投げられた。ごとりと炉の中の薪が崩れ、炎がひとしきり上がった。
 雨は全てを覆い隠すようにしとしとと降り続け、恋人達の時間は始まったばかりだ。
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