王国

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春の遠出

 王立学問所の創立記念日は春もやや遅い時期だった。賑々しく王族を迎えての 記念式典が終われば、学生達は食堂で振舞われる馳走を食べて開放される。 次の日は慰労の意味もかねての休みだから、一日半の自由なときが楽しめる。
 ユアンは寮の裏庭にある藤棚の下、この前から読みたいと思っていた本を 抱えて一人過ごしていた。この昼下がり、寮にいる子供達も皆、親元へと帰っていき、 学問所には式典の片付けをするわずかな事務員以外、ほとんど人影はない。 彼ももちろん望めば、寮から出ることはできたが、行く宛がなかった。
 日差しは優しく、風はなく、それは穏やかな日だ。ぶーんと小さな羽音が 藤棚の上を飛び交い、蜜蜂達がせっせと働いているのが見える。その脇を 生まれたてのような色鮮やかなアゲハチョウがふわりと飛んでいった。 近くの檸檬の木を探しているに違いない。こんな日はのんびりと外を歩いて 過ごせば、とても気持ちがいいだろう。
 ぱたりと本を膝の上に伏せ、ユアンは藤棚の隙間から見え隠れしている 青空へと目をやった。
 孤児院を訪れて、幼い子供達に会い、彼らの面倒を見るのもいいかもしれない。 しかし、あれほど羨望の目で送られた彼の今の境遇を聞かれたら、何と 答えればいいのだろう。正直に教えるわけにもいかない。 昨晩もあの男に呼び出されたおり、今日の式典のことを考えて、手加減して ほしいと少しだけ頼んだ。その何がいけなかったのか、いつも以上に手ひどく 扱われ、首の周りにできた痣がまだずきずきと疼いている。足腰も 痛みに痺れたようであり、今朝はまともに 歩けたことを感謝したくらいだ。 彼の境遇を夢の世界と勘違いしている幼い子供達に、話の調子を合わせることが つらく感じられ、孤児院にいく気は掻き消えた。
 王とその親族は王宮で今頃派手な宴会を開いているのだろう。さきほどまで、王立 学問所の建物の横には、威容を誇る王宮から数十台の馬車が押し寄せていた。 記念式典に臨んだ貴族たちは式典が終われば、またぞろぞろと移動していった。 その中に、小さなクラトスの姿を認め、ユアンはそのときだけ、何とも 温かい気持ちを感じた。クラトスから家に遊びに来ないかと誘われたが、生憎、本人が どう思っているかとは別に、王族としての義務がある。結局、クラトスの家に遊びにいけなかったのは残念だけれど、 今日は クラトスの姿を見られたのだから、良かった。自分に言い聞かせた。
 もの思いに耽っていたせいで、 膝の上に広げたままのせていた本がばさりと地に落ちた。大切な本も拾わず、ユアンは 風でふわりと地面に広がる藤色の花がらを見るともなく見た。たった一人で好きに 過ごせるというのに、彼は何もしたいことが思い浮かばなかった。あんなに 希望と願いに溢れていた自分はどこに消えてしまったのだろう。したいことは 数えきれないほどあったはずなのに、今、ここで、彼の心は虚ろなままだ。
 暖かい日差しも、のどかな小鳥の囀りも、忙しなく行列を作る小さな蟻たちも 全てがまがい物に見える。泣きたいのに、涙もこぼれず、怒りたいのに、 叫び声も出てこない。小さなベンチの背もたれに体を捩るように顔を伏せた。 このまま時が止まり、人知れず姿を消すことができるなら、それが 望みだ。
 かさりと音がして、誰かが側に近づく気配を感じた。だが、ユアンにとって、 誰が来ようと、どうてもいいことだった。無視することで、何か手ひどい目に 合うのなら、それでもいい。いっそ、王の使いが来てくれれば、自分で考える こともなく、望んでいることではないけど時間潰しはできるだろう。


「ユアン……。寝ているの」
 それは、ユアンの予想していない声だった。
「クラトス様」
 慌てて起き上がると、クラトスが罰悪そうに立っていた。
「あの、起こしちゃってごめん。寮に行ったら、外に出ていったと 言われたから」
「いえ、何も問題ありません。それより、どうしてこちらにいらっしゃる のですか。今日は祝宴の日ですから、宴席に出ていないとまずいのでは ないですか」
 ユアンの問いにクラトスはちらりと斜めに目線を動かし、それからユアンを正面から覗き込んだ。
「ああ、あれはつまらないから、気分が悪くなったって言って抜け出してきた。 だって、お前がいないから、話し相手はいないし。父上達はお酒飲んで、 面白くもない話ばかりだし」
 正装で式典に出ていたはずなのに、目の前のクラトスはいつもの通りの制服だった。
「クラトス様、その格好は……」
 クラトスが今気づいたのかと言うように、にこりと笑顔を浮かべた。
「ねえ、寮の中、誰もいなかったから、僕とお前だけだよ。 天気もいいし、外に行ってみないか」
「いいんですか」
 ユアンは恐る恐る尋ねた。
「もちろん、そのつもりで着替えてきた。正装なんかで歩けるわけ ないだろう。王都の外に出たとたんに、誰かに連れ戻されちゃうよ」
 クラトスがユアンの足元に落ちている本を拾った。
「ユアン、それとも、こんなにいい天気なのに、本を読んでいたいの」
 ユアンはクラトスが差し出した本を受け取ると、 軽く着いていた土埃を掃った。
「いえ、今日の午後は一人だと思っていましたので、時間つぶしに広げていただけです」
「よし、決まり。どこに行く」
 クラトスはユアンの手を引くと外に走り出そうとした。
「クラトス様、待ってください。本を置いて、お金を取ってきます」
「ありがとう、ユアン。すっかり、お金のことは忘れていたよ」
 いかにも王族らしい鷹揚さで答えると、クラトスがぺろりと舌を出した。 その様子にユアンはくすくすと笑みをこぼした。現金なもので、体の辛さはどこかへ吹き飛び、足取りも軽く、 寮へと駆け戻る。ユアンは走りながらも、クラトスと 一緒に回る店のリストを考え、必要な小遣いをはじき出す。 晴れた空と同じだけ、彼の気分は浮きたってきた。


 王国の領土は世界の中で見ればさほど大きくはないが、そこに 住む子供達にとっては果てのない広大な世界だった。今時分、子供一人で数日の 旅をするなど考えられないご時勢ではあるが、それでも小一時間も歩けば、 賑やかな王都とは別世界の豊かな 農地に囲まれたのだかな農村がある。
 王都の市場で昼食となりそうなものを選び、二人は人の出入りも激しい大門から 街道へと歩き出した。クラトスがたまには、王都から外にでて、近くの村を訪ねたいと 言い出したのだ。夏へと季節が移っていくのを教えるかのように、 街道の周囲の牧草は豊かに生い茂り、街道脇を流れる川の周辺も蒲や葦が たけ高く伸び始めている。川原の開けている場所を見つけると、二人は草地に 腰を下ろした。
「このあたりでお昼にしよう。これから歩かないといけないからね」
「クラトス様、どこまで行くつもりなんですか」
「皆が話しているのを聞いたんだけど、半刻もかからないところに とてもきれいな村があるらしい。土地が豊かで、穀物も 一杯取れるらしい。今の時期だったら、早い夏の野菜や果物が 出ているんじゃないかな。トマトはだめだけど、メロンなら2個は食べられるよ」
 ユアンはクラトスの説明にひとしきり笑った。
「トマトだっておいしいですよ」
「色からして駄目だ」
 クラトスが自分の赤い髪を振り乱し、嫌そうに首を振った。
「クラトス様の髪や目の色に大変似ていますけどね」
 わざとユアンがからかうと、クラトスははあとため息をこぼした。
「ユアン、僕はお前の髪と同じ青い色のものが好きなんだ。 たいてい、青いものはおいしいからね。メロンだろ、スイカだろ」
 ユアンが今度はため息をついてみる。
「私がお好きなのは、おいしいものに似ているからなんですね」
 その言葉にクラトスは慌てて言い訳を始めた。
「あの、ユアンのことは誰よりも好きだ。果物に似ているから 好きなわけじゃない。ユアンはなんでも知っていて賢いのに、すごく 優しいし……」
 そこで、クラトスは恥ずかしそうに言葉を途切らせ、 それから真っすぐに顔をユアンの方へと向けた。
「ユアンだから、好きなんだ」
 ユアンの目を見つめ、クラトスが高らかに宣言する。 幼い子供らしい明快な言い回しにも関わらず、ユアンの胸はどきりと 高鳴った。このときを止めて、ずっと過ごせたなら、どれほど 楽しいだろうか。それから、ユアンも自然に笑みをこぼし、 クラトスに答えた。
「私も、クラトス様のことは大好きですよ」 
「ありがとう、ユアン」
 クラトスは無邪気に笑みを浮かべ、 ユアンの腰へと手を回し、肩に寄りかかってきた。
「どういたしまして」
 返す言葉が震えていることに、クラトスは気付いただろうか。 ユアンが所在なく、草の葉をいじるなか、 クラトスは屈託なく昼食にかぶりつき、ユアンに自分が携えてきた 水筒をさしだした。
「はやく食べよう、ユアン。あまり遅くなると、帰りに大門の警備がうるさく言うから」
 少年の笑顔とごく自然な振舞いに、ユアンの食欲もたちどころに戻り、二人は そそくさと昼食を流し込み、目的地へと向かった。


 たどりついた村は数百人は住んでいるのだろう。教会を中心とした広場に小さな市が立っており、 広場を取り囲むように数十軒の家が並んでいる。 よく手入れされた家々に、服装もこぎれいな人達が行きかい、 それでも王都にはないのんびりとした空気が漂っている。 よい天気だからか、市の店のそこかしこで 村人達が立ち話をしていた。ユアンはもとより、クラトスも王都近郊の 村を訪れたことはなかった。もの珍しさに、二人とも一つずつ小さな店をのぞき、 よくわからない商品や農産物の説明を聞いた。小一時間も歩けば、村の中を ぐるりと回り終わった。
 二人がきょろきょろと辺りを見回していると、腰の曲がった老婆が声を かけてきた。
「あんた達、王立学問所の生徒さんかい。王都から来たのかね」
 ものおじしないクラトスは、すかさず、老婆へと挨拶をし、答える。
「ええ、そうです。こんにちは、私がクラトスで、こちらがユアンといいます。初めまして」
 子供らしい愛想のよさに老婆がにこにこと笑いながら、尋ねる。
「ここで何を探しているんだね」
 ここぞとばかりにクラトスが訴える。
「探し物というわけではないんですが、王都から散歩がてらここまで足を伸ばしたので、 少し休む場所はないかと周りを見ていたんです」
 老婆が驚いたような声をあげた。
「散歩にしちゃ、ずいぶん歩いてきたもんだね。 この村の旅籠はつぶれちゃったから、隣村までいかなきゃ居酒屋はないよ。 あんたらが良ければ、うちにおいで。飲み物くらい出してあげるよ」
「いえ、ご迷惑をおかけしては。あの、私はハーフエルフですし」
 ユアンは王都での扱いに懲りていたので、親切そうな老婆の反応を 覚悟しながら、正直に伝え、自分の足元へと目を落とした。 親切に声をかけられ、その後あからさまに目をそらされるのは、最初から睨まれるより 辛い。だが、王都の人ほど、拘らないのだろうか。老婆はユアンの言葉にからからと 笑って答えた。
「子供のくせに、何言ってるんだい。人間だからって、ハーフエルフを取って食うわけじゃないよ。 こんなきれいな子供をいじめたりしないさ。 そう怖がりなさんな」
 横でクラトスがにこにこと笑った。
「ね、ユアンてきれいでしょ」
 クラトスはまるで自分が褒められたように、自慢気に答えた。思わず、恥ずかしさに下を俯くユアンとクラトスを見て、老婆が優しい笑い声を立てた。
「いいお友達がいるじゃないか。あんた達は仲がいいんだね。さあ、ふたりとも私についておいで」
 まだ逡巡するユアンにクラトスが囁く。
「ユアン、宿屋もなさそうだし、いいんじゃない」
「そうそう、子供が遠慮するもんじゃないよ。 それにしても、あんた達、身奇麗だけど、お貴族様かい」
「……」
 クラトスが困ったように明後日の方へと目線をはずし答えなかったが、それこそが 答えになっている。ユアンは苦笑した。
「彼はお察しのとおりですけど、私は王都のはずれにある教会の孤児院の出身でして……、 奨学金をいただいて通っています」
「ふん、あの修道院の出身かい。そりゃ、苦労しただろうに、偉いね。 王立学問所に入るとはすごい出世じゃないか。まあ、 こっちにおいで」
 老婆は二人を手招きすると、村はずれに向かって歩き出した。 緑溢れる庭にぐるりと取り囲まれ、 小さな家がぽつんと立っていた。良く手入れはされているようで、 辺りの家と同じ茶の柱に白い漆喰の壁。そこにからむように蔦とつるバラが 生い茂り、薄いオレンジの薔薇が一面に咲いていた。緑の芝生にも、 デイジーやマーガレットが緩やかなカーブを作り、 自然な趣を感じさせている。木陰には、まだつぼみの白い百合や青い釣り鐘草が揺れ、 畑から風が優しく吹き寄せる。
「うわぁ、きれいな家だね」
 クラトスが陽気に叫んだ。ユアンは雑然としながらも調和がとれている庭の美しさと老婆のマナに深く息を吸い込んだ。華やいだ香はバラだろうか。
「ありがとうよ。今年は気候がいいから、薔薇がよく育ってね」
 老婆が開けた扉の先は、すぐに台所となっていた。 クラトスが珍しそうに家の中をきょろきょろと眺めた。
「何かい。こんな小さな家を見るのは初めてだろうね」
 苦笑気味に老婆がこぼすと、クラトスはぶんぶんと首を横に振った。
「便利そうでいいですね。僕もこういう家がいいなぁ。起きたら、すぐ 食事ができるし、何かするのも、歩かなくてすみそうだ」
 老婆はくすくすと笑った。
「えらい褒め言葉だね。貴族の坊ちゃんにしちゃ、 面白いことを言ってくれるね。気に入ってくれて嬉しいよ」
 ユアンはクラトスの後ろから恐る恐る家に入ると、 所在なく立ち尽くした。実のところ、クラトスの館以外に個人の家に あがりこんだのは、これが初めてだった。だから、 どうしてよいのか、分からなかった。
「ほら、ぼんやり突っ立っていないで座りなよ」
 庭に咲いていたと思しき花の飾られた小さな丸木のテーブルをぐるりと囲むように、 粗末な木の椅子が数個並べられている。その向こうに 煤けた炉があった。火は落とされ、 小さな薬缶が脇に置いてあった。
 少し汗を掻いた体にはひんやりとした空気が優しく、 穏やかな家の景色はユアンの目には眩しいほどだった。
 これが、家族のための家なのだ。 もしかしたら、自分もこんな家に住めたのかもしれない。 ユアンはこっそりと家中を見回し、その雰囲気を味わった。 こんなに小さな空間に深く温かいマナがそこかしこに溢れているなんて、 なんて素晴らしいのだろう。胸の中に温もりが沸き上がる。
 遠慮なくクラトスががたがたと音を立てる椅子に腰を据えると、 ユアンも隣へと静かに座った。老婆は背後の流しの脇から、 大きなピッチャーとグラスを人数分持ってきた。
「今年のオレンジで絞ったジュースだよ。さあ、遠慮せずに飲んでごらん。おいしいよ」
「ありがとうございます。本当においしい。ところで、おばあさんの家族はお仕事をしているの」
 出された冷たい果汁を飲みながら、クラトスが無邪気に尋ねた。
「家族かい。うちの旦那はとっくのとうに天国に行ったよ。 十年前の戦でこのあたりも戦場になったからね。息子はここから 数日の南の村にいたんだけど、去年の戦から後、家族ともども行方不明さ。 嫁が隣村の出身でね。あちらの家族が探しにいってくれたんだけど、 どこへやらに避難したきり、戻ってこないという話だったよ。 孫が三人いたんだけどね」
 老婆はまるで今日の天気の話をするように淡々と答えた。
「……すみません。気のきかないことを聞きました」
 クラトスがしょんぼりと肩を落とした。ユアンも 孤児院ではよく聞く話ではあったが、今更のように胸がふさいだ。
「あんた達、そんな顔をおしでないよ。よくある話さ。私ももうすぐお迎えが 来るだろうから、そしたら、旦那には会えるさ」
 何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。老婆は軽く笑った。その様子に我知らず、身を乗り出し、ユアンは老婆へと訴えた。
「そうおっしゃらずに。どうぞ、希望をもってください。お孫さんが探しているかもしれませんよ」
「そうかねぇ。どこかで元気にしてくれてるといいねぇ。もしそうなら、会いたいものだが、 この年ではね。もうおいそれと旅は出来ないからね。 あんたは孤児院にいたって言ってたね。王立学問所に 通っているということは、家族に会えたのかい」
「いえ、家族とは……残念ながら巡り会えないままです。でも、きっとどこかで私のことを探してくれている と思っています」
 少し語尾を落としたユアンの手を老婆が優しく持ち上げ、ゆっくりと握った。乾いて皺の寄った手は優しくユアンの手を包み、ユアンの気持ちを分かると伝えてくれた。 そして、ユアンに笑いかけ、頷いた。
「そうかい。そうだよね。私も孫のことを忘れたことはないよ」
 そうだ、見せたいものがあるよ、と老婆は立ち上がった。よちよちと老婆が暖炉の前にいき、その上にあるいびつな容器を持ってきた。
「息子は焼き物をやっていてね。これは、一番上の孫が私へと 作ってくれたものでねぇ。花瓶だよ。変な形しているだろう。 だけど、これだけは、大切にしているのさ」
 クラトスが恐々とその花瓶を受け取った。 武骨でいびつな花瓶は、それでも作った人の想いに溢れ、 ユアンの目には暖色のマナがまといついているように見えた。 しばらく、老婆の思い出話を聞き、二人はその小さな家を辞した。
「道中は気を付けるんだよ」
 老婆は、手作りの焼き菓子を紙に包み、 二人を村の出口まで見送ってくれた。二人は、手を振る老婆を 振り返り、振り返り、来た道を戻り始めた。


 春の天気はきまぐれだ。あんなに雲一つなく晴れていたのに、 ひとしきり生暖かい風が吹いたかと思うと、 灰色雲が二人の頭上に漂ってきた。案の定、 ぽとぽとと降り出した雨に、二人は大きな木の下で身を寄せた。 王都まで濡れていくこともないと、二人は休憩をかねて雨宿り することにした。
 しばらく黙って雨空を眺めていたクラトスが、 独り言のように小声で言った。
「なんだか、もう一度、あの人のところへ戻りたいね」
 ユアンも同じことを考えてはいたが、しばらく黙った後、 ゆっくりと首を振った。
「クラトス様、今更謝ってもあの方のご主人も息子さんも 帰ってはきません。私達が簡単に謝っては、あそこまで話して くださった気持ちを却って踏みにじることになるかもしれません」
 クラトスはユアンの言葉にかすかに項垂れ、また空を見上げた。
「そうか、そうだよね。ユアン、分かった」
 クラトスは膝を抱えなおし、静かに頷いた。 淋しそうなクラトスの背中をユアンはそっと撫でた。
「だけど、僕達の……いや、僕の叔父上や父上は知っているのだろうか」
 クラトスらしく、どうにかできないかと幼い胸を痛めている。 王族には全ての民の生活を預かる義務があり、 一方で、市井の人々それぞれの生活を知ることはできない。 理想的にはあらゆることを知ることが望ましいが、 為政者は神ではない。 王やクラトスの父の時間を思えば、理想と現実の間を埋めるには 彼らのような力のある者達でも厳しいだろう。 ユアンは淡々と答えた。
「ご存知でもあり、個々の人のことは何もご存知ないとも言えるでしょう。 一度戦が起きれば、兵士だけでなく、戦場になった町の人も、 補給に借り出される村人も皆等しく危険はあります。 勝利してさえも、犠牲になる人は数多くどこにでもいるのですから」
 クラトスは小さく頷き、少し考えこんでいたが、独り言のように つぶやいた。
「学校の教科書で読んでも、あまり、きちんと考えたことがなかった。 でも、戦が起きれば、王国が勝っても あのお婆さんみたいな人がたくさん出てしまうんだよね」
 何を答えたらいいのだろう。ユアンはしばし考えた後、淡々と自分の経験を話した。
「そうですね。私の両親がどうだったかは分かりませんが、多くの孤児は戦争で親を失って……孤児院に 来るんです。戦の後は、それはたくさん来ました。そして、親と巡り合える子はごくわずかでした」
「そうか。それでも、親と会える子もいるんだよね。ユアンは孤児院にいたから、よく知っているん だろうね。息子さんの子供達もどこかの孤児院にいると いいんだけどね」
 ユアンは答えを返せず、滴り落ちる雨を見つめた。
 あそこに命あってたどりつける者はそれを幸せというかどうか わからないが、一握りの者だけだ。噂を聞いているだけでも、 多くの子供達は親と一緒にどこかで命を落とす。 ようやく孤児院にたどりついても、ほとんどの者はあそこで幼いうちに命を落とす。 成人できる者など数えるほどしかいない。 そして、孤児院を出ることができても、戦の多い 今の王国で、幼い子供が一人で生き抜いていくのは至難の技だ。 それに、孤児院を出られたからといって、それは戦で命を 落とすよりも幸せなことなのだろうか。
 ユアンは自嘲気味に考えた。 いっそ、戦で死んでいれば何も感じないですむかもしれない。
 馬鹿なことを考えていはいけない。
 孤児院から出ることができ、まがりなりにも生きていける のだから、それは喜ばしいことなのだ。例え、どんなに理不尽な 扱いを受けたとしても、生きていれば、遠くで彼の生死を 心配している血をわけた親族達にいつか出会えるかもしれない。 あのお婆さんは今でも孫の花瓶を大事にし、 決して孫のことを忘れていない。一言でいいから、ここにあると 彼が伝える機会が与えられているのだから、生きていなくてはならない。
「ユアン……」
 クラトスがいつの間にか彼の手を握り締めていた。その温かさが、さきほどの老婆の手に重なった。ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「あ、気になさらないでください。その、私の両親もさっきの おばあさんのように、私のことを……」
 泣いてはいけない。年端もいかない子供だった孤児院時代は とうに過ぎた。ユアンは嗚咽をもらさぬようにと、唇を かみ締めた。
「絶対に忘れていない。ずっと心配してくれている。 きっと、ユアンのことを探しているはずだ。それに僕がいる。 僕もユアンを大切に思っているよ」
 さっきまで慰めていたはずのクラトスがお返しとばかりにユアンをぐっと抱きしめた。 小さな腕の中にある深く広い慈しみへと、ユアンは身を委ねた。 たまには自分の感情に素直になっても、クラトスなら 受け止めてくれる。
「僕はあのおばあさんのことを忘れないよ。 皆があんな悲しい思いを しないですむように、僕は大きくなったら、戦が起きないようにするつもりだ」
 ユアンはクラトスらしい正義感に溢れた言葉にただ頷いた。 この年になれば、 国同士の争いにきれいごとはあり得ないと分かっている。だが、今はクラトスの言葉を 信じたかった。
 彼に代わるように、あの老婆の代わりのように、何千という彼と彼女と 同じ境遇の者達が心の中で流しているように、天から雨が細く静かに滴り落ちる。 涙を滲ませたまま、ユアンはクラトスの肩に顔を押し付け、かろやかな春雨の音に 自分の想いを託す。どこかにいるであろう両親や家族達に、今となりにいる大切な 友の心の奥に、これから出会えるであろう大事な人達に、彼の想いを、あの老婆の気持ちを そのまま届けて欲しい。
 霧に変わろうとする白く細かい雨が静かに二人を包み込んだ。
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