王国

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荒地

 今年の秋は霧と急にやってきた寒さで、いきなり冬へと進むかのようだった。
 王が遠征に出る直前、ユアンは流行病に倒れた。このところ、王都では高熱が出て、老人や子供達では命を失うほどの悪い風邪が流行っていたため、遠征に向けて大事をとって学問所には出向いていなかったが、どこかで拾ってしまったようだ。
 寮の部屋で一人黙って寝ていたため、高熱が出ていることを誰も気づかず、こじらせてしまった。王から差し向けられた侍医が慌ててクラトスの父を呼び寄せたくらいだったから、よほど具合が悪かったのだろう。そのまま、すぐにクラトスの家に引き取られた。
 直前にクラトスが同じ風邪で倒れていたのを考えると、彼がその病に罹ったのは偶然ではないだろう。クラトスに誘われて、町の裏通りへ遊びに行ったことは二人だけの内緒だ。


 クラトスの家では、同じく休養を医師が命じられているクラトスとベッドを並べて奥様に見張られることとなった。
 クラトスは同室の学友がすぐに異変に気づいたこともあり、手当てが早かったのか、彼よりは早く回復した。3日もすると起き上がれるようになった。すっかり退屈した様子で彼のベッド脇に椅子を寄せ、戦術論の本などを読んでいる。
「クラトス、ユアンの邪魔をするのではありません」
 奥様がお盆に薬湯を入れて部屋に入ってきた。奥様は一緒によい香りのする菓子と喉越しのよい果物を少々切り分けたものを運んできていた。
「さあ、薬湯を飲んだ後、召し上がりなさい。私がさきほど焼いたのよ」
 奥様が卓に置く前に、お盆から一切れ菓子を取り上げると、クラトスはすぐ口に放り込んだ。
「クラトス。私の言ったこと、聞いていましたか」
 奥様はちょっと笑いながら、ユアンの手をとる。奥様の少しひんやりとした手が気持ちよい。
「だいぶ、落ち着いたようね。まだ、熱はあるようだけど、動悸はしていないわ」
 そうおっしゃりながら、額を彼の額に重ね、熱を確かめている。
「奥様、あまり近づかないで下さい。うつるといけません」
 本当はもっと触れていて欲しかったが、遠慮をする。奥様はにっこりと微笑みながら、でも、彼の手は離さなかった。優しく慈愛に溢れた茶色の目が彼の心の奥底を覗き込んでいるようだ。
「大丈夫。この悪い流行病は昨年罹ったから、私はもううつらないわ。ね」
 そうおっしゃりながら、彼の手を両の手で包み込んだ。
「こんなに痩せて、人の心配はしなくていいのよ。我が家に来たからには、しっかり直してちょうだいね」
そう言って、もう一度だけ、彼の手を優しく握り、背中を抱き起こすようにしてくださる。それから、薬湯の椀を彼に渡した。
「いいな、ユアンは。母上に構っていただいて」
 横で椅子の背に首を載せて、またがった足をぶらぶらさせながら、クラトスが甘える。
「クラトス。大人しくベッドで寝ていれば、面倒を見てあげますよ。そんな起き上がってユアンの邪魔をしているようでは駄目です」
 クラトスはちょっとだけ考えていたが、どうやら、ベッドにいるよりは一人で薬湯を飲むことに決めたらしい。いかにも嫌そうな顔をしながら、いきなり椀の中味を飲み干している。
「母上、これ、食べていいですよね」
 盆の上の菓子はあっという間にクラトスの口の中へ消えていく。
「クラトス。ユアンにも残してさしあげなさい。まだ、厨房に行けばたくさんあるのだから、慌てなくてもいいのよ。さ、あなたも召し上がれ」
 奥様はクラトスの頬についてる菓子くずをそっと払うと、小皿に果物と菓子をすこしずつのせてくれる。その白い手の優美な動きをうっとりと見つめる。
「はい、どうぞ」
 いきなり、その手が彼の口元へ果物を運ぶ。
「奥様、私はもう子供ではありません。自分で食べられます」
 慌てて手で取ろうとする前に、口の中へと甘く水気の多い果物が押し込まれた。
「ちゃんと食べてね。昨日も一昨日も何も食べていないでしょ」
 奥様が目をきらきらと輝かせて微笑む。クラトスは横で大笑いしている。まったく食欲がなかったはずなのに、するりと果物は喉を通り、皆で一緒に笑いあった。


 一週間ほどたち、ようやく、彼も部屋の外に出る許可を得た。クラトスは殊勝にも彼が部屋を出られるようになるまでは、大人しく、彼の隣で本を読んでいた。
「さあ、おめでとう。二人とも外に出てよろしい。ただし、家の中にいるのよ。部屋の炉の火が落ちていたら、きちんと火をいれるのよ」
 奥様の一声でクラトスは彼の手をひっぱる。
「ユアン。同じ部屋ばかりにいてはつまらないよ。図書室に行こう。あそこにはお前の好きな本がたくさんあるよ」
 クラトスの家の図書室は、王宮ほどではないが、かなり充実した蔵書があり、たまに訪れるときにそこを覗くのを楽しみにしていた。
「クラトス様は本にはうんざりだったではないですか」
 この前から、あきあきした様子をしていたのを彼は知っている。彼のためにじっと我慢をしていたのだ。
「いや、ユアンが楽しめる場所がいいよ」
「それでは、厨房に行きましょう。あそこは暖かいし、楽しいです」
 クラトスの家の厨房はとても楽しい場所だった。彼が知らない料理器具、見たこともない食材、奥様秘蔵のきれいな食器、そして、クラトスの家らしい元気な調理人。何時間いてもあきない。最初にこの家に連れて来られて、奥様の胸に抱かれた場所だというのは彼の心の中だけの宝物だ。
「行こう。行こう。いいものがあるんだ」
 クラトスはもう頭の中でおねだりするものをすっかり決めたようで、すぐに彼の手をひっぱって走り出した。
 後は、夕暮れになるまで、暖かい炉の側で、調理人や侍女、執事達の噂話を聞きながら、甘い蜂蜜を落とした飲み物や、クラトスが調理人を骨抜きにして手に入れた秘蔵の菓子を食べ、どこからか出てきたトランプやダイスでゲームに興じる。


 秋も終わりの珍しく好天の日に、せっかくの日和だから、軽く運動がわりに二人で遠乗りに行くようにと提案してくださったのは奥様だった。手ずから昼を作ってくださり、クラトスと彼にそれぞれ手渡してくださった。
 クラトスの館から続くなだらかな丘陵はすでに枯れた草に広く覆われ、黄金色に輝いている。最初は軽く走り、馬達が十分に運動したことを見てとると後は二人で轡を並べてゆっくりと進む。
 丘陵を上りきったところから広大な館とさらにその向こうに広がる王都を見る。空気は冷たく澄んでおり、王都の中央から反対の方向へ立ち並ぶ壮麗な宮殿もくっきりと見える。さらに宮殿を越え、その向こうにうっすらと穏やかな山並みが続いている。戦で何回か越えた山並みのさらにその先には、長く広大な荒地が続き、その先は険しい山岳地帯である。ここからでは、雪をいただく高い山がわずか見えるだけであるが、湖と森に囲まれて開けた谷間のどこかにヘイムダールがある。
 顔も知らない父がいると信じているヘイムダールの方へ向き、何がしかの思いでも届かないかと祈ってみる。もちろん、祈りや奇跡を信じているわけではない。そんなものが叶うのなら、孤児院をとうに出て、優しい両親と一つ屋根に暮らしているはずなのだから、祈りは通じないし、奇跡は起きないと分かっている。それでも、彼の気持ちのわずかでも届いて、心配していてくれるかもしれない父を慰められればと祈る。


 クラトスは地図を出し、見える景色を比較しながら、自分達の位置を調べている。ここまで来た道はおおよそ見えているのだし、そんなに神経質にならなくてもと笑う彼に、クラトスが文句を言う。
「今、分かっているからこそ、後で役にたつんだよ」
「すみません。学問所でもそういわれてましたね」
ユアンが謝れば、クラトスは地図を草の上に降ろし、手招きする。二人は肩を並べて今まで来た道を地図の上でたどり、その先の道をどこに行くか相談する。
 天気が良いので、奥まで行っても差し支えないだろう。町から離れたと言っても、ほんの半日の距離であるから、帰りが暗くなっても心配することはない。
「ねえ、この印はなんだろう」
「池のようですね。そこまで行きますか」
 地図から目をあげれば、道は丘陵から緩く下り、林の中へと入っていく。この辺りは、夏の間は牧場のように使われているが、晩秋の今、人影はほとんどなく、林の合間にある草地は枯草色になっている。
 相前後しながら、ゆっくりと進む。
 その道はなだらかに続き、たまに二手に分かれたり、右手の丘陵からの下り道が合流している。どこで間違えたのだろうか。肝心の交差路を見逃し、気づくと林は終わり、草地から岩がごろごろと覗く荒地の端にたどりついていた。
「ごめん。どこかで間違えたみたいだ」
 クラトスが頭をかしげながら、地図を取り出す。
「さきほどの鞍部の四辻で南に行った方が良かったかもしれませんね。」
 地図を眺め、越えてきた交差の数を数える。
「でも、ここは初めてだ。せっかくだから、もう少し進まないかい」
「何もないみたですけど、奥まで進みますか。道はまっすぐですから、今回は迷いませんよ」
「天気もいいし、探検しよう」
 クラトスは嬉しそうに馬に鞭をいれる。荒涼とした乾いた荒地に埃がまいあがり、慌てて後をおいかける。


 追いついた先で、クラトスが馬を下りて、何かを見ている。彼も一緒に馬から下りて共に調べる。
 果てしなく続く荒地で、その道標はいつから立っていただのだろう。古く苔むす石の表面には、風雨で削られ、何が書いてあったのか判然としない。だが、手をかざすと、そこには遥か昔から続く旅人達の安堵や祈りの気持ちが込められているかのように温かく感じられる。ぼんやりと残っている文字は、今は一般には使われなくなったエルフの文字にも似ている。
「一体、いつからあるんだろうね。何が書いてあるかわかるかい」
 クラトスが表面を軽く撫でる。
「とても、長い間あったようですね。私も読めません」
「不思議だね。ユアン。誰もが読めなくなった文字がそれでも残っている。作った人はどこへ消えたのかな」
 こんなときに気づかされる。
 自分が今使っている言葉も文字も、狭間の者としての長い生の間には消えてしまうのだろうか。この瞬間、この地にクラトスと二人で立っているという事実をたった一人で抱えることになるのだろうか。ここにある苔むした道標のように、生まれ出でたときにははっきりと明らかであったものも、遥か先には、ぼんやりと形骸だけが残り、何もが意味を失ってしまうのだろうか。
 突然、側に立っている者を遠く感じる。
 そんな彼の心の内も知らずに、クラトスはなおも朽ち果てた石の表面を撫でる。
「すごいね。きっと、この石はこんなになっても使われているんだよ。ほら、手が触れる部分は磨かれてみたいにへこんでいる。これを作った人たちはきっと喜んでいるよね」
 はっとクラトスの顔を見る。
「でも、この道標が何故作られたのか、どうしてここに置かれたのか、もう誰もしりませんよ」
「そうかな。分からなくても、喜んでるさ。だって、ここにあるって僕らは気づいたよ。忘れられていないよ」
 クラトスの言葉に黙ってうなずく。
 そうなのだ。忘れない。現身ははかなく消えても、この暖かさはずっと彼の心に残るだろう。同じように、今の彼の姿もクラトスの中に残るはずだ。自分の立場を思えば、そう長くはクラトスと共にいられるわけがない。そのときために、今の自分を心の中にきざみつけておいてほしいと密かに願う。


 馬首を返し、来た道を戻る。
 晩秋の森は、最後まで枝に残った枯れ葉の散る音以外、何も聞こえない。木漏れ日が暖かく感じられる木々に囲まれた草地に湧き出る泉の横で二人は休む。穏やかな午後の光が泉の上で虹色に広がり、現とも夢ともつかないのどかな時に彩りを添える。
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