旅路

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井戸

 大きな港を構えたその町は、新興商人達により寄進された大きな学問所とこれまた大きな総督府を構え、いかにも活気に満ち溢れている。春を迎え、冬で荒れた海の路が開けたことから、船の出入りがにわかに激しくなった。港から町の広場へ通ずる防波堤では、荷降ろしの人足やら、主人の船荷を調べようとする番頭やら、船長と船賃の交渉をする商人やらでごった返し、ゆっくりする間もない。
 一行も折りよく空いていた商船に便乗し、無事にたどり着いた。勢いよく通りすぎるこれらの人を避けようととまどうマーテルをユアンが支え、港のあちこちを覗きこんでは海に落ちそうになるミトスをクラトスが引っ張りながら、ようやく、広場へとたどり着く。
 今宵の宿を探さねばならない。
 ふと、広場の向こうの学問所を見ると見覚えのある顔が見えた。あれは、王国の学問所でよく遊んでいた幼馴染ではないだろうか。向こうも気づいたのか、こちらを見ている。


「ユアン、いつ来たのだ」
 ユアンの同級生だった彼は確か王国の裕福な商家の生まれだった。
「今日、ついたところだ。久しぶりだな。お前こそ、どうしてここにいるのだ。覚えていよう。こちらはクラトス。後は私の連れのマーテルとミトスだ」
「お久しぶりです。クラトス様」
 ユアンの友人は律儀に頭を下げる。
「よしてくれ。お前も知っているように、王国を離れて久しいのだ。クラトスと呼んでくれ」
「ユアン、よいところで会った。お前が隣国で活躍していたと聞いてな、使いの者を送ろうとしていたのだ。話せば長くなるが、こちらにうちの商会の支店を置いているのだ。最近は輸送の便がよいから、こちらで主として取引を行っている」
 さすがに情報が早い。隣国で我々が活動していたことを知っているからには、扱っているものはそれ相応の武器か兵器に違いない。
「どうだ、今日はうちに泊まらないか」
 渡りに船の誘いで、早速やっかいになる。


 その商人の家は港とは反対側の先ほどの喧騒が嘘のような静かな一等地に建っている。さほど大きな家ではないが、金がかけられていることが良くわかる。出迎えてくれた細君はこちらで迎えたらしく、王国で会ったことはなかった。伝統ある商家の細君らしく、いかにも品の良い、美貌の持ち主だ。着ているものも、派手ではないが流行のものを自分に誂えて直しており、髪型も今風にすっきりと上にあげている。


 夕食が終われば、皆で居間に移り、懐かしい思い出話から最近の隣国の情勢、王国の問題や商会の活動まで、様々な話題で盛り上がる。友人の家ということもあり、気を許したのか、久しぶりに結構な量の酒を飲む。やがて、細君とどこで出会ったかの話に移り、二人で友人をからかいながら、細君を褒め上げる。
「そんなにおしゃっても、何もでませんことよ。」
 顔を半ば染めて、嬉しそうに笑う彼女を見ると、以前の王宮を思い出す。ユアンに相手をされて舞い上がらない女性は皆無だ。あの王宮でも宰相の令夫人が滅多に現れ出ないユアンと踊って、皆に大層自慢していた。王の悋気さえなければ、それはすごかっただろう。だが、ユアンはそういうことにはとんとうといから、自分の影響力に気づいていない。
 王宮にあったように、細君の手に軽く儀礼の口付けをして、ユアンがその髪型を褒める。王宮ではそうすることが慣わしだったから、ただ、しているのだが、他の者は気づいていないだろう。横で、マーテルも一緒に頷いている。だが、その眼差しは少しだけ不安げだ。無理もない。以前の王宮の慣わしとミトスとマーテルが送ってきたであろう素朴な付き合いは全く異なるものなのだ。
「ユアン、うちの奥さんをそんなに煽るな。後でふところが痛むのは私なのだぞ。なあ、クラトス」
 友人はユアンが褒め上げるのに満更でもなさそうに笑っている。
「お前は幸せな奴だ。そういうことなら、多少の出費も痛くあるまい。そもそも、ふところが痛むのも楽しんでいるであろう」
 細君の方を見て、グラスを上げてやれば、友人と細君は二人して楽しそうに笑いあう。マーテルはほんの少し、うらやましげに細君を見遣っている。
「マーテルだって、うちの奥さんと同じように髪を結いあげれば、お前達が驚くほどきれいになるぞ」
 ユアンとマーテルのことを知ってか、知らずか、友人がマーテルを褒める。春宵の風がマーテルの長い髪を靡かせ、その様は、また友人の細君とは異なるあるがままの美を象徴している。
「いや、マーテルはそのままでいいんだ。そのような髪型は似合わないよ」
 ユアンが、ここだけは正直にマーテルに語りかける。全く女心を理解していない奴だ。本気で思っていても、言っていいことと悪いことがあるということをまるで分かっていない。マーテルが少しだけ目線を落とし、ミトスの目がやけに光っている。
 まずい。と思った瞬間、さすがにあの大きな商家を切り盛りするだけ気のきく細君がマーテルの髪を手にとり、褒める。
「こんなに自然で美しい髪をいじることなんてないわ。とても羨ましい。姉弟でこんなにきれいにしていられるなんて、何か秘密でもあるの」
 女同士で髪の手入れの話を始めたのを機に、少し酔っているユアンと友人を外に連れ出し、ミトスを紹介しながら、今後の相談を始める。



 朝早く起きると、家の裏庭に剣の稽古に出る。すがすがしい朝の空気に水鳥の声が聞こえ、空高く鴎が飛び交っているのが見える。
 ふと見ると、裏庭にある新緑も鮮やかなアカシアの下の井戸の横でマーテルが髪を梳っていた。明るい緑の中でいっそう長く美しいその髪は、さほど手入れをしなくても、さらさらと見事に流れている。しかし、よく見ると、マーテルは梳ってはいるが、心はここにあらずのように、ぼんやりとしている。どうしたのだろう。こちらが見ているのに気づかず、ちらと回りを見渡し、そっと井戸を覗きこんで、髪型を変えている。今流行りのまとめ髪を手で押さえて試している。
 気にしていないようで、やはり、乙女らしく気づいているのだ。ユアンに酒を飲ませなければ良かった。昨晩は、友人の細君ということで、気を許したのだろうか、調子よく過ごしていた。マーテルに気にしないように教えてやらねばならないと考えていると、あちら側からミトスが走ってくるのが見えた。どうやら、海を覗きに行ったようだ。マーテルはぱっと立ち上がると、そのまま、部屋へと戻っていった。
「あれ、姉さまったら、どうしたのだろう。クラトス、遅くなってごめん。鴎が騒いでいたから、ちょっと、先に海へ行ってみたんだ。どうやら、あちらの方に魚の群れが来ているらしいよ」
 ミトスは剣を取りながら、自分がみてきた様子を語っている。後はしばらく二人でいつも通りに数合、打ち合い、部屋に戻った。マーテルは何事もなかったかのように朝食のテーブルに現れ、ユアンと言えば、どういうわけか、姿が見えなかった。


 友人のおかげで、今夜の総督府の晩餐会に出席できることとなった。これで、総督府とも繋がりができる。しかも、友人は総督府でもかなり重用されているようだ。こちらに来た甲斐があったというものだ。
 友人の細君はおめかしするのに大騒ぎだ。侍女達が女主人のために様々な準備をしている。その横でマーテルは静かに細君の服を誉め、そちらの髪飾りがいいだの、あの首飾りがいいだの、相談にのっている。
 やがて、支度のすんだ細君は、手が空いたせいか、今度はマーテルを着飾ろうと、早速、それはかわいらしい小さな白花のレースをあしらった淡い緑のドレスを盛んに勧める。マーテルも最初は遠慮していたが、結局は細君の勢いにそのまま任せている。その着飾った姿の出来栄えには、ミトスも細君も大喜びで鏡の前のマーテルを誉めている。マーテルはその賞賛を前に乙女らしくわずか頬を上気させ、しかし、一番見せたいものの姿が見当たらないことに不安そうにしている。髪も侍女たちが大喜びで流行の形に結い上げ、大層似合っている。そのとき、ようやくユアンが部屋にもどってきた。


 ユアンは部屋に入った瞬間に立ち止まり、ぽかんと口を開けてマーテルを見ている。
「まあ、ユアン。どう、ご覧になって。頼まれたとおりにいたしましたわ。彼女、とても素敵になったでしょう」
 細君が自分の作品を自慢する。
「いや、ありがとう。マーテル。なんてきれいなんだ」
 ユアンは細君の指に軽く礼の口付けを送り、マーテルに近づく。マーテルはそのユアンの動作を悲しげに見る。ユアンは分かっていない。王宮では日常茶飯事の行動も彼女の心には影を落とすのだ。
「いつものお前でもまぶしいのに、まっすぐ見られないよ」
 ユアンはそんな彼女の心を知ってか知らずか、大げさに誉めそやす。
「ユアン、お安くないわね」
 細君や侍女がくすくすと笑い、ミトスがむっとしている。
「でも、私、このような髪型をしても、場違いだわ」
 昨夜のことを思い出したのか、マーテルは少々下を向く。ユアンがその手にもっていたものをマーテルに差し出す。
「そんなことはない。お前はどんな髪型でも似合っているよ。昨日はすまなかった。手に入れるのが遅くなってしまった。今朝、お前が井戸の側で試していたので慌てて注文したのだ。気にいってくれるといいのだが」
 それは、マーテルの目の色を濃くした翡翠色の大きな髪留めで、ちょうど、結い上げられた髪にぴたりと合った。
「ユアン」
 マーテルがその目に光るものを浮かべてユアンにゆるゆると抱きつく。
「私どもの出入りの宝飾職人を紹介しろって、朝から大変でしたのよ」
 細君は侍女と一緒に私達の手をとり、部屋を出ながら、囁く。半ば押し出されるように部屋から出たミトスが恨めしげに振り返り、でも、静かに扉を閉じた。


 遅い春の宵闇に、ぼんやりと部屋の明りが港に映るテラスで、マーテルとユアンが互いに見つめあいながら、ゆっくりと踊っている。星の瞬きと揺らぐ海から反射する明りを散りばめた濃紺の世界だけが、彼らの背後を彩り、その真中で部屋からの明りを受けて輝くマーテルの目と大きな翡翠の髪飾りがこの世にある生の喜びを歌っている。
 黙ってそれに魅入れば、夜はゆっくりと更け、二度と返らない平穏なときは過ぎ行く。
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