GIFT - 与えられしもの - (旅路)

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日溜り

 その里を訪れたのは、まったく偶然だった。
 目の前の古い森になぜか心惹かれた。まるで、呼ばれたかのように木々の濃さにふらりと足を踏み入れた。それは、すでに立ち入りを拒否されて久しい故里を取り囲む原始の森を思わせた。
 一歩足を踏み入れると、重なりあった木々が腕を伸ばして先を開けてくれているかのごとく、苔むした緑の小道が続いていた。全ての音を吸収するようなその道を歩けば、彼を誘うかのようにリスやジネズミといった小動物が小走りに先を走った。振り返れば、彼の踏み跡の上を終わろうとする夏の日を浴びてきらりと輝くカラスアゲハの青みがかった金属光沢が目に入った。
 道は緩やかに高度をあげたかと思うと、とうとつに森は切れ、まばらな木々の先に崖が現れた。秋を感じさせる涼やかな風が彼の方に吹き上げ、ミトスの髪を揺すった。眼下にほんの小さな集落が飛び出した。夕餉の支度でもしているのか、煙突から白い煙がたなびき、風にのってよい香が漂ってくる。
 村の中心と思しきところへ続く下り道の下で、その少女と目があった。村の景色に心を奪われていたから、そこに人がいることに気づかなかった。人影が足元に落ちているのに気づき、その影をたどるように見ると、先にか細く、しかし、見たことが無いほど煌めく真珠色のマナを感じた。
 何の心の準備もないまま、奥底まで透明な湖とも思えるその目に瞬間囚われた。
「旅の方ですか」
 彼がその目を見つめ、立ち尽くしていると、少女の方から無防備に声をかけてきた。姉にも似た、より柔らかいマナが再度優しげに立ち上るのが感じられた。
 少女は小首を傾げながら、一歩近寄ってくる。
「お疲れでしょうか。もう、夕暮れどきです。よろしかったら、我が家にいらっしゃいますか」
 

 いつの間にか、少女の家に逗留している。
 初めて出会った晩夏の夕暮れから、はや一月は過ぎただろうか。森は秋の気配を漂わせている。彼に与えられた小さな二階の部屋から家の周りを囲む木立が少しだけ葉の色が変わっているのが見える。
 居間に設えてある炉の温もりが彼の部屋の壁の一部にもなっている煙突から感じられた。おそらく、少女の母親が食事の支度のために、湯を沸かそうとしているに違いない。カタンと規則正しい音が響く。手の器用な彼女の父親が作った機で、少女が布を織っているのが分かる。
 その家では彼女の両親がほそぼそと織物を作り、あるいは、山から切り出された丈夫な桜や桂を用いた木工品を作って生活の糧としていた。
 町では珍しいヤママユガの細い絹糸から織り出す光沢のある軽い布は大変珍重されているらしく、ごくたまに村を訪れる商人がかなりの現金と交換して持ち帰っていた。彼女の父親が作り出す木工品は、彼から見ればこのような鄙には似つかわしくないほど品のよいものであり、同じく町でよく売れるとのことだった。
 この村はエルフの血にわずかに連なる者達がひっそりと暮らしていた。長い時間の間に、人と狭間の者たちは入り混じり、彼のような第一世代は一人もいなかった。そのせいか、村人達はみな人よりはわずかに長寿で、しかし、彼のようにマナを扱える者はほとんどいなかった。
 村人達は外界のことをほとんど知らず、迷い込んだ彼を暖かく迎えてくれた。その居心地の良さに、数日のつもりでいた滞在が気づくと長引いていた。

 
 器用に機を操る少女の姿は、単調に繰り返される音を背景に、いくら見ていても見飽きなかった。糸を繰る彼女の母親の手伝いをしながら、気づくと彼の目は少女を探している。南側のささやかな台所から続く作業場の戸口で糸とりどりに染められた糸の籠をかかえたまま、中の様に見とれる。
 一筋まっすぐに伸びる光に輝く少女の髪は織り出される艶やかな織物に重なり、伝説の織姫のようだった。
 少女がふいとその面をこちらに向ければ、自然と目線が合う。その度に己の鼓動が跳ね上がっることに、理由もなく胸が苦しくなることに気づき、持っている籠の柄を思い切り握りこむ。だが、苦しいそのときが、また至福のときであることも分かっている。
 ユアンの目よりも遥かに深い藍色の輝きを湛える少女の眼差しが彼を縫いとめ、身動きさえままならない。息が止まるとはこういうことだと震える膝が教えてくれる。
「あの、糸はどこにおけばいいのかい」
 ようやく搾り出した声は自分のものとは思えないほど、上擦っていた。少女は彼の問いに、初めて自分達の目線が交わっていたことが分かったのか、頬をわずかに薔薇色に染めて俯いた。
「そちらの棚に色で分けて並べてくださいな」
 区切りでもついたのか、機を織る手を休め、少女が立ち上がった。
 ミトスはその優雅に足を進める様をまた眺める。命を掛けて、並居る敵軍の前に立ったときもこれほど緊張したことはなかった。高貴な人々を前にして、己の使命を語ったときにもこんなに言葉に詰まったことはなかった。そこにいるのは、鄙にひっそりと生きる彼のことを何も知らない乙女が一人だけなのに、彼の体は凍りついたままだ。
 彼の混乱した気持ちには気づかず、少女がほんの数歩で彼の前まで歩み寄る。ミトスがその少女の動きに見惚れたまま動かずにいると、彼の持っている籠を受け取ろうと、労働をしているとは思えないほど白く華奢な手を差し伸べた。まじまじとその手を見つめたミトスは、あやうく、空いた手で少女の手を取ろうとする寸前、少女の意図に気づき、出そうとした手を押し留めた。
「きちんと色がわかっていないから、教えてくれないかな」
 自然に声が出ただろうか。立ち止まっている少女の前を過ぎ、棚へと向う。
「あら、ごめんなさい。うちの染めはむらがあるから、確かに分かりにくいわね。こちらの黄色のものは、オレンジと同じ棚に並べてくださいな」
 軽い足音はミトスの脇で止まり、少女は彼が抱えている籠の中からひょいと自然に糸の束を取り出すと、彼の目の高さの棚へと入れた。その拍子にふんわりと綿帽子のような少女の髪が彼の鼻先を霞め、初夏の咲き立ての薔薇のような優しく甘い香りがした。振り返る少女のまっすぐな目線に思わず動揺を覚える。
 ああ、出会ったのかもしれない。指示されたとおりに棚の中へ糸束を納めながら、ぼんやりと別のことを考える。天が与えてくれるものは本当にあるのだろうか。ユアンや姉ではあるまいし、神の国の話など幼い頃から信じたことはなかった。だが、この瞬間、ミトスは自らの意志とは異なる力がどこかにあるかもしれないと確かに感じた。
 我に返れば、籠の中の糸はすべて棚に整然と並んでいた。背後からはいつのまにか、規則正しい機織の音が聞こえ始めている。
 何を考えているのだろう。彼女は手伝いとは名ばかりで右往左往する彼を助けてくれただけなのに、まるで、彼のためにわざわざ立ち上がって傍に来てくれたなど都合のよいことを考えてはならない。
 ちらりと部屋を出際に振り返れば、少女は小気味よいリズムで機を操っている。その顔は背後からの日差しに陰り、表情は判然としなかった。
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