GIFT −与えられしもの− 

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喪失

 里にようやく遅い春が訪れた。ミトスは峠の状態を確かめ、アレトゥサと明日にもここを出発しようと話し合った。天気もこのところ安定しているし、荷物はとうに出来ていた。


 峠が開いたということは、外界からも人が訪れることを意味した。村人が穏やかな冬を過ごしているとき町を散々に蹂躙し、恐ろしい悪魔は看病疲れの親戚という形で現れた。何も知らない村人達は、町から避難してきた親戚を暖かく迎え入れ、語られる恐ろしい流行病のできごとに眉を顰めた。
 アレトゥサの家自体は近くに親戚がいなかったが、心優しい彼女の母と彼女は逃げ延びてきた人たちのために暖かい食事を作り、にわか作りの寝具や暖かい衣服と一緒に差し入れをした。雪がまだ残る山里は寒さが厳しいから、この思いやりはたいそう喜ばれた。男たちは古い馬小屋や納屋を修繕し、逃げ込んできた人々が過ごすための部屋の確保に努めた。ミトスも慣れない大工道具を片手にアレトゥサの父親と一緒に手伝った。
 それは、村はずれの家で始まった。薬師でもあるアレトゥサの父が数日後の夜中に呼び出された。ついていこうとするアレトゥサや彼女の母を抑えて、ミトスが薬箱を運び、治療を手伝った。だが、その症状は長い間患者を診続けてきたアレトゥサの父どころか、素人のミトスが見ても致命的なものであった。
「ああ……」
 アレトゥサの父は一歩あとずさり、頭を抱えた。
「ミトス、お前はもうこの部屋をでなさい。他の者も、この患者に触れたものはすぐに薬液で手を洗い、うがいをしなさい」
 震える声でそういうアレトゥサの父の顔色にミトスはただならない病であることを直ちに理解した。部屋には重苦しい沈黙がたれこめた。


 小さな村の人の交流は濃厚だ。目には見えない病魔は遅い春の霞のように、人々がきづく前に家の隙間から忍び込み、誰に対しても、等しく公平に襲い掛かった。
 病人が出て二日後にはアレトゥサの家で悲鳴があがった。昼間は確かに働いていたはずのアレトゥサの父親が夕暮れ時になっても食卓に現れなかった。父親は部屋に誰も入れないようにと閉じこもったが、ミトスは斟酌しなかった。こじあけた扉の先で、心優しい村の薬師は高熱にすでに意識がなかった。
 ミトスが扉のように立ちはだかる前で、少女と母親が青ざめた顔色で中を覗き込んだ。
「僕が見る。君達は入ってはいけない」
「ミトス、お父様なのよ」
 その抗議のやりとりと聞いていたアレトゥサの母親が首をふった。
「言い争いはおやめ。町から来た人に聞いた。病人が出た家はほとんど駄目になったそうだよ。ミトス、アレトゥサ、父さんの側に私は行くよ。多分、父さんは助からない。私も寒気がする。同じ病気だ。昨晩、あの倒れた人と小一時間は話していたからね。約束しておくれ。お前達はこの家から出て行きなさい。いい、ミトス。明日は必ずアレトゥサを連れて出ておくれ」
 そう言うと、アレトゥサの母親は決然と部屋の中に入り、二人の前で扉を閉めた。扉の向こうから再度声がした。
「いいかい。この扉は決してあけるんじゃないよ。明日、私が出てこなかったら、何もせずに、ここから出て行っておくれ」
 小柄でほっそりとしてアレトゥサによく似たその人が夫の側へと歩いおく足音が聞こえた。

 
 涙をこぼすアレトゥサを抱きしめ、ミトスは炉辺に座っている。衝撃を受けた少女はほとんど何も語らず、彼の胸に身を寄せていた。夜もかなり遅くなったころ、ようやく、黙っていた二人は立ち上がり、各々の部屋へと分かれた。
 次の日、ミトスは起きるとすぐに、アレトゥサの両親に声をかけた。中から返事はなかった。ミトスは少し躊躇い、結局扉はあけなかった。
 こうなったら、せめてアレトゥサだけでもこの村から出さなくてはならない。しかし、彼の胸をとてつもない不安がしめつけた。早起きのアレトゥサの姿が見えない。
「ミトス、部屋に入らないで」
 朝、起き上がってこない少女を確かめに部屋に入ろうとすると、思いがけないほど厳しい声が彼をたしなめた。開けかけた扉の把手を握ったまま、彼はいつもの習慣で立ち止まった。
 だが、その声の意味することは明白だった。起きぬけの女性が部屋に入ることをたしなめる声ではなかった。ついにここまで悪魔は到達したのだ。
 だから、彼は遠慮なぞしなかった。扉には鍵が掛けられていたが、そんなもので彼を阻止することは無理に決まっていた。掴んだ取っ手にそのまま雷撃を与えれば、簡単に扉は開いた。
「アレトゥサ」
 近寄る彼を見まいと、少女はそむけた顔を枕に押し付け、再度くぐもった声で懇願した。
「お願い。ミトス、近寄らないで。あなたはまだ大丈夫。だから、私のことは放っておいて」
 その声音は弱々しく、だが、意志はしっかりしていた。
「アレトゥサ、どこが苦しいの。ここ数日は地獄のようだった。だから、ただの疲れだよ」
「お父様とお母様はどこ。二人の声が聞こえない」
「君のご両親は寝ているよ」
 ミトスの口から出てくる言葉は二人の間でむなしく消え去った。二人とも分かっている。起き上がれなくなったときが最後なのだ。死の病は何も予告は出さない。
「ねぇ、今のうちに言うわね。ミトス、愛しているわ。だから、お願い。ここから出て行って」
 ミトスは少女の言葉の中の予感に打ちのめされた。部屋の寒さだけでなく、ひどい喪失感に震え上がった。
「アレトゥサ、愛している。君を置いていくわけにはいかない。君のお母さんと約束したからね。震えているよ。寒いんだろ」
 何かに呼ばれるように、少女の寝床の側にいき、熱いくせに、がたがた震えている少女の体を抱いた。初めて床の中で添い寝をした少女は、現実の物とは思えないほど小さく軽く、そして、熱かった。
「ミトス、離れてちょうだい」
 苦しい息の中からそれだけをつぶやくアレトゥサをさらにいっそう強く抱きしめる。
「お前が寒くならないよう、暖めてあげるよ。だから、楽にしていて」
 高熱に体を震わせるアレトゥサの髪に手を這わし、背を優しく撫でる。少女の速く熱い息が彼の喉元をくすぐった。苦しさにこわばる体にせめてわずかでも楽に過ごせるようにと、マナを与える。急速に意識が薄れていこうとする少女の体は何もかもが素通りしているようだった。
 後、どれだけ、共にいることが許されるのだろう。ほとんど意識の戻らない少女を胸に抱え、ミトスは階下の時計がきざむ音を数えていた。
 この病に罹った者を助けられないことはもうこの二日で嫌というほど思い知らされた。彼女を失うぐらいなら、今、こうしている内にも己の体に少女の熱が這入りこみ、同じ病になれればいい。そうすれば、彼も数日後には少女の待つ場所に行けるはずだ。いや、いっそ、一緒に全ての彼の持つマナを大地に返せば、それでいいはずだ。
 ミトスが祈りともつかない言葉と共に自身のマナを放つと、その勢いに部屋全体が熱気をもった。だが、放たれたマナは大地にも天空にも吸収されず、ただ虚空を揺らがして彼の元へと舞い戻った。
 この星は彼に命じることはあっても、彼の願いを聞き届けたことなぞ、一度もなかった。今もまた、ほとんど鼓動をとめた冷えた星は彼のマナを受け付けず、何の救いも与えてくれない。
 そうだ。今こそ、あの剣を奮うときかもしれない。雪解けの前にどうして無理にここを出なかった。あと一週間前に戻れば、この村から抜け出せるはずだ。いや、峠の向こうの町はいつからこの病魔が襲ったのだ。姉達のいる町までの間で、何が起きているのだ。少女の側を離れるのが怖く、だが、剣をここで使いたい。
 彼が起き上がろうとしたとき、熱で浮かされていたはずのアレトゥサの目が彼を見つめた。
「ミトス、……。あなたがしてはいけないと思うことはしないで」
 少女は悲しそうに目を伏せた。
「とうとうあなたの家族に会えなかったわね。でも、あなたを見ていれば、どんなに素晴らしいご家族か分かったわ。だから、私がいなくなったら、必ず、あなたの家族のところへ戻って、私のことを話して頂戴。……。約束よ。紹介してくれるって言ったわよね」
 こんなになっても、彼女は分かっているのだ。彼の葛藤が、彼がしようとしていることに気づいているのだ。
「アレトゥサ。一緒に行くと言っただろう」
「ミトス……。紹介するって、約束して……」
 ほとんど動けないはずの彼女の手がゆっくりと彼の手を探る。慌てて、その熱い手をとれば、ゆらめく眼差しが再度、彼を捉えた。
「約束よ」
「ああ、約束だ」
 彼がしっかりと答えると、確かめるように少女の目が数回瞬きを繰り返し、苦しいはずなのに、わずかに微笑んだ。そのわずかな微笑みに安心した瞬間、急速に少女のマナが揺らぎ始めた。
「アレトゥサ!  アレトゥサ! 」
 マナを与えようと、流れ出すマナを止めようと、精一杯の力を引き出そうとすると、うっすらと目をあけて、アレトゥサはかすかに首を横に振った。美しく長い少女の睫のはしから、砕けた水晶のように涙が零れ落ち、ため息のようにほっと息が漏れた。少女のマナが彼の心の奥にするりと滑り込み、掴もうとした瞬間、その全ては大地へと帰っていった。
 

 白い煙が村から立ち上がる。奇跡的に生き残った村人が村の家々に火を放ったのだ。ほんの一週間で恐ろしい病魔は村から奪えるものは全て奪いつくし、後には死の匂いだけが立ち込めていた。
 ミトスは、最後の口付けを冷たい少女の唇に落とし、我が家と呼んでもおかしくないほど慣れ親しんだ家を離れた。
 もう、埋葬できるだけの人手もない。病から生還した数人の村人と彼はどうにか葬送に相応しくなるよう失われた人々を村の中央の数軒の家に安置し、祈りを唱えた。
 生き残った者の気持ちを表すかのようにチロチロと炎をあげる火は、おりからの南風に煽られ、蛇の舌が舐めるように古びた壁を這い上がった。青白い煙が昼の空を揺らがしたかと思うと、轟音と共に屋根まで高く炎が立ち上り、ほんの数日前までのあった村の営みを全て灰燼へと変えた。
 残った村人達は高台から激しい炎に倒れいく家に黙祷をささげると、それぞれ当てのある場所を目指して分かれていった。
 ミトスは小高い丘の上から離れるに離れられず、白い煙が天に届く様をぼんやりと眺める。少女のマナの優しさはどこにも感じられなかった。もう一度だけ、あの灰の中へ身をおき、少女の名残を探したい。灰の中に彼も溶け込みたい。そんな衝動にかられて、村への道を途中まで降り、立ち止まった。
 どこからともなく、少女の声が聞こえた。
「約束よ」
 確かに聞こえた。彼は必死で辺りを見回した。無情な白煙以外に動いているものは何一つ見えない。
 そのとき、最初に彼が少女に捕えられたまさにその場所に立っていることに気づいた。あの泉の水の湧き出る音が耳に入った。
 この音だったのだろうか。ふらふらと近寄れば、そこだけは何も変わらず、まるであの夏の終わりと同じように鏡のような水面が広がっていた。脇に誰が使ったのだろうか、古びた木桶がゆらりところがり、今にも少女が水を汲みに現れそうだった。
 泉の奥に山桜が白い亡霊のように立っている。日が落ちれば、春の盛りを教えるカタクリの花も固く口を閉じ、肌を突き刺すような冷たい風が山桜の花を散らし、苔むした岩の上にその真っ白な花びらが乱れ落ちた。
 夕暮れに燐光を放つような白さが目に沁み、涙は静かに彼の目から溢れでた。
 心の一部はここで永遠に失われたことを知り、無人になった村に最後の一瞥を与え、一人山を降りる。
 この星の運命が、彼を自由にしてはくれない。天から与えられるものから逃れることは適わない。
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