転回

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夏至

 長い夏の日がようやく落ちようとしている。
 町の中はこの聖なる日を祝うために、至るところに白い馥郁たる香を放つ百合と邪気を払うと信じられているライラックの花が飾られ、篝火が道沿いに立てられている。すでに火を点され高く掲げられた篝火は落ちる夕日の照り映えた湖面に火の粉を散らし、かすかな風に揺らめく。
 不思議な日だった。
 潜んでいた森の中の人間牧場を出て、なぜ、こちらの方に歩みを進めたのか。理由は分からなかったが、足は自然とこの湖の町へと向いた。
 近づいて、その町のざわめきに、今日という日を知る。人の暮らしとは無縁となって長かったが、地上に降り立てば、忘れ去っていたはずの四季とそれを向かえる人々の営みに自然と慣れる。
 夏至を祝う慣習は、彼が以前生れ落ちた場所にもあった。あの頃は、それを不思議と思うこともなく、ただ受け入れていたが、それが今になって時も場所も異なるこの地で同じく祝われているのが、ひどく懐かしく感じられた。


 町の人ごみは予想以上で、共に移動している生き物はうんざりしたように鼻をならした。
 彼が地に降り立ってしばらくすると、どこにいたのか、ノイシュが現れた。まるで、昨日別れたばかりのように彼に近づいてきたノイシュは、そのまま、また彼の旅についてきている。
 あの全てが変わってしまった日、気がつくとノイシュはいなかった。やがて、事が落ち着くと、地に君臨する天使として降り立つ度に、機会があれば、その姿を探していたが、まるで地に呑み込まれてしまったかのように遥として消息は得られなかった。
 それなのに、まるでそれを知っていたかのように、独りで森の奥を彷徨っていたときにふと前に現れた。数千年前にマーテルがあの瞬間振り向いて「まあ」と声をあげたときと同じように、確かにその瞬間までは何者の気配も感じられなかった緑のカーテンの奥から、突然現れた。そのまま、あの旅のときと同じく地上を彷徨う。


 いよいよ、町中では祭りが始まろうとするようで、皆、湖の真ん中にある広場へと橋を移動していく。
 風もほとんどなく、鏡のような湖面に映る篝火はその明るい炎をくっきりと見せ、空も濃い藍色へと変化していく。
 この町の少女たちだろうか、白く清楚な裾の広がった膝丈のドレスに黒いチュニックを纏ったおそろいの姿で手に手にあでやかな夏の野の花を束ねたものを持って、彼と同じく広場へと向う。その愛らしく無邪気な姿は、まだ希望に満ちていたあのときの若草色の乙女の瞳を思い出す。はにかんで少し俯き加減に、でも、隣の青い髪の婚約者に手を取られて、愛されている喜びと誇りに輝いていた翡翠の目は、確かに在ったはずだ。
 過去の思い出に囚われていたせいか、人ごみに押され、足元のノイシュを避けようとして、少女達の中に入り込む。慌てて出した手が、側の少女の持つ花を払い落とす。急いで拾おうと伸ばした彼の手に少女の白い手が重なる。


「すまなかった」
 払い落とされた花はその勢いに花びらを散らした。恥ずかしげに下げられた手に花束を返そうとすると、回りの少女達からわずかなため息が洩れた。
「いえ、お気になさらないでください。旅の方」
 明るく印象的な声が答える。目の前に立つ小柄な少女は、にっこりと笑うと彼から花束を受け取った。篝火に煌くその大きな鳶色の目は、長く忘れていた彼の母親を思い起こされた。
 何か言わなくてはならないことがあるように、その目に魅入られ、そして、彼が彼女が進むことを阻んでいることに気づく。
「すまなかった。せっかくの花束を傷つけてしまった。大事な日だというのに、邪魔をした」
 彼がまた深く詫びると、優しく大きな目がゆっくりと瞬き、彼女が繰り返す。
「どうぞ、気になさらないでください。拾ってくださってありがとうございます」
 そのまま、にこやかに微笑んで、少女は周りの少女達の少し不安そうな様子には頓着せず、共に今日の中心となる広場へと歩いていった。


 何かまずいこをしたのだろうか。
 この町の夏至の祝い事の次第やしきたりは分かっていない。いつもなら、彼の身の上を考えれば、極力、人と関わらないようにしているのだが、さきほどの少女達の不安そうな様子を思い、広場へと赴く。
 広場には人が溢れ、さきほどの少女達や、やはりこの地方の衣装に着飾った楽団や町の重鎮らしき者たちが広場の真ん中に用意された舞台に上がっていく。
「すまないが、これから何が始まるのだ。」
 隣にいる町人に尋ねる。
「あんたは旅の人だね。この町は始めてかい。夏至祭りだからね、今年の乙女達が湖のために踊るのさ。ほら、そのために花束を持っているだろう。あれを投げて、最初に拾った人とあの橋を渡ると、湖からの祝福をもらえるのさ。だたの儀式だからね。大抵は家族や誓い合った者に渡すのさ。だから、周りにみな待っているだろう。」
 その説明でうなずく。
 なるほど、彼が拾ったときに周りの少女達はそれを気にしていたのであろう。だが、今の町人の話を聞けば、たわいもない慣習のようだから、はずれた場所から成り行きだけでも見て行こう。そんなことを考えながら、ぼんやりと舞台から離れた木の下へ向おうとするが、人混みに押し出されるように、舞台のはずれに留まる。
 思ったよりもテンポの速い陽気な旋律が始まり、少女達が互いに組になり、輪になり、また散って行く。その健康的で飾り気のない踊りは夏の濃紺の宵を背後に真白い裾の翻る様がいかにも純真だ。この国のあの森の中で進行している恐ろしい出来事が絵空事のように思える。


 それは、篝火に赤々と染められた宵の空をゆっくりと回転し、弧を描き、正に彼の腕の中へと呼込まれるように飛び込んできた。
 野の花はこの夏の暑さにも負けず、まだ、きりりと首をもたげ、わずかに甘い香を放っていた。
 まだ、何が起きたのか分からない彼の前に、人垣が開け、向こうから背後の明かりに照らされ、天啓にでも指し示されたかのように生真面目な表情をしたさきほどの少女が歩いてくる。
「旅の方、よろしければ、湖の祝福をご一緒に受けていただけませんか」
 律儀に頼む鳶色の目を見て、周りの人垣が静まれば、彼も否とは言えない。以前の王宮に在ったときのように、軽く膝をつき、胸に手を当てて礼を取り、花束を捧げる。少し驚いて、それから我に返ったように俄かに頬を染めて微笑む彼女は、過去の心地よい思い出のように、いつまでも見飽きない。
「よろしく頼む」
 彼が立ち上がり、腕を差し出すと、小柄な少女はぶら下がるようにその腕に白く細い腕を絡め、片方の腕に花束をしっかりと抱えて、二人は煌々と篝火で覆われた橋へと向う。
 人の流れに従い、真剣に前を見据える少女と彼は篝火のアーチをくぐり、暗い湖面の上に香草が撒き散らされたその聖なる橋を夏至のしきたりに従って渡る。花束の香か、少女と共に踏み越えていく香草から立ち上るのか、わずかに喉を擽る清涼な空気に酔う。


 橋を渡り終われば、そこは湖の中ほどにある小さな島となっており、さきほどよりは小さな広場の祭壇に花束を捧げる。
「ありがとうございました。あなたにも、いつまでも湖の祝福がありますように」
 少女がさきほどと同じように、あの温かい笑みを浮かべる。
「こちらこそ、ありがとう。私のような見知らぬもので良かったのかな。家族に渡すと聞いたが」
と、問いかければ、少女は軽く顔を横に振る。
「さきほど、最初に拾っていただいたのですから。あの、まだお伺いしておりませんが、お名前をお伺いしてもよろしいですか」
「こちらこそ、礼儀を知らず、すまなかった。クラトス・アウリオンと言う。あなたのお名前を聞いてもよいかな」
「あら、私もすみませんでした。アンナ・アーヴィング です。折角ですから、我が家でお食事でもいかがですか」
 わずかに心が揺らぐが、彼は人に干渉するつもりはない。
「せっかくのご招待はありがたいが、もう、この町を出ねばならない」
 彼の返答に少し少女ががっかりした表情を見せ、しかし、すぐにさきほどの明るい笑みを再度浮かべる。
「お急ぎでしたのに、お引き止めしてすみませんでした。どうぞ、お気をつけて」
「ありがとう。すばらしい経験をさせてもらった。アンナ、あなたにも湖の祝福がありますように」


 ノイシュと共に、祭りの余韻でまだざわめいている町を何か追われるように急ぎ出る。
 夏至の夜は妖精の王が出歩く危うい時間だ。このまま、この町に長居をしてはならない。彼には、捜し求めねばらない事があり、守らねばならない誓いがあるのだ。
 だが、妖精が振りまく黄金の粉はすでに二人の心に忍びこみ、その芽は吹き出すときを待っている。
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