フルムーン旅行 : センチメンタル・ジャーニー

PREV | NEXT | INDEX

鄙びた漁村 -過去編- (二)

「マーテル」
 滅多なことでは口から出すことのない名前がふいに飛び出した。
「……」
 呼びかけられた当の本人は不思議そうに彼を眺め、それから満面の笑みを浮かべた。
「こんにちは、ユアン」
 ユアンは目の前でふわふわと茶色の髪を靡かせ、無防備な笑顔を惜しげもなく差し出す女をまじまじと見つめた。馬鹿なことを言ってしまった。ユアンはろくに見も知らぬ女の前で大切な名前を、知られてはならぬ秘密を漏らした己の口を押さえた。マーテルのわけがなかった。彼が守らねばならない女神は遥か高い場所で静かに眠っている。永遠の沈黙の中にいる。麗しい笑顔も、優しい笑い声も、踊るように揺れる髪も全ては過去の霧に包まれ、蘇るはずもなかった。
 ごほん、と咳ばらいしどうにか気持ちを立て直すと、ユアンも慣れない笑みを浮かべた。
「お前はなぜ……いや、こんにちは……ア、アンナ」
 不器用に挨拶する彼に、くすくすと噛み殺したような笑い声があがった。マーテルはもっと軽く透き通った笑い声だった。ユアンは前に立つ女を再び無遠慮に眺めた。彼の女神はすらりと背が高く、髪もさらりと風に泳いでいた。なによりも、こんなつぎはぎのスカートを捲りあげ、足を剥き出しにしていたことなどなかった。生き生きとしたマーテルの姿が彼の脳裏に艶やかな色と共に浮かび上がる。ずいぶんと生前の彼女を思い出せずにいた。いや、思い出さないようにしていた。
「あの、私のこと、覚えていてくれたのですね」
 かわいらしい笑顔が彼の目の前に迫った。ユアンは思わず一歩下がった。
「いや、覚えているとも。久しいな、アンナ」
 不意打ちをくらってうろたえる彼の姿がよほどおかしかったのだろうか。目の前の女は、再び明るく笑い声をあげた。女のたくしあげられたスカートと真っ白い剥き出しの脛が、寒風の中、ユアンの目を引きつける。この女はたった一人で、こんな場所で一体何をしているのだろう。女を守るべき男はどこに消えたのだ。そこで、ユアンは慌てて目を逸らした。奴の代わりに眺めていいものでもないだろう。
「すまない……」
 明後日の方へ目を泳がし、ユアンは言わずもがなな言い訳を口にした。
「あら、変な格好でごめんなさい」
 女は初めて気付いたらしく、自分の足元をながめ、それから徐にスカートを直した。潮に濡れた裾には継ぎがあてられ、この季節というのに、哀れなほど薄い生地だった。風にはためく薄い布地は、まだ濡れている足首に貼りつき、細いくるぶしが痛々しいほどだった。ユアンはどうにか目線を女から引きはがすと、周囲を見回した。彼の鋭敏な視覚にも聴覚にも、他の人の気配は感じられなかった。
「風もまだ強い季節に、こんな場所で何をしている。奴はどうしたのだ」
 ユアンが不審な表情も露わに尋ねると、アンナは自慢そうに背後の岩場を指差した。
「私、海藻を拾っているの。今日は調子がいいから、いつもの倍は採れたわ」
 波の来ない高い岩の上に、紫色や緑色の濡れた海藻がもつれ合っていた。
「それで、クラトスは仕事に出ているの。あなたが来てくれると分かっていたら、出発を遅らせたでしょうにね」
「そうか。出発とはクラトスは何をしているのだ。こんな場所にあなたを置いていくとは」
「旅業の人たちに雇われたの」
「傭兵をしているのか」
「結構、この界隈では腕がいいって評判なのよ」
 それは結構なことだ、とユアンは相槌を打った。ユアンの反応に賢い女はまたいたずらっぽく笑った。この女もすでに理解しているだろう。クラトスの腕をもってすれば、世界随一の傭兵と呼ばれる方が容易い。だが、この世界で目立たないことこそ、彼らが生きる上で最も重要なのだ。
 冷たい風がさっと吹き寄せ、女の髪をいたずらに揺らした。波打ち柔らかい髪を押さえる手は荒れていた。そこにある物が彼を引き付け、ユアンは無意識に己の手を伸ばすと、小さな手を掴んだ。
「何を……」
 一瞬驚いた声をあげたが、アンナはその手を彼に預け、するがままにさせた。ユアンは弱い日差しにも禍々しく光る石を注意深く観察した。アンナの手は冷たく指先は痛々しいほどに赤くなっている。だが、宿主の状態など意にも介さず、手の甲に半ば埋もれた石は以前よりいっそう深く根をはり、鈍い青色を発している。石を囲うかなめの紋は擦り切れ、すでに石を治める役を果たしていない。
「何と言うことだ。奴は知っているのか。なぜ、放置している」
 ユアンは詰問した。
「最近のことなの。あなたが施してくれたお呪いのおかげか、かなめの紋のおかげか、少し前までは何も変わりなかったのよ」
 アンナが淡々と答えた。
「ねえ、立ち話もなんだから、あそこに座りましょうよ」
 女が滑らかな岩を指差した。
「こちらこそ、気付かいもしないで悪かったな」
 ユアンが彼女の手をとったまま歩き始めた。
「えっと、まあ……」
 ユアンがマントを広げて、彼女に座るように促すと、アンナは困ったように声をあげ、躊躇った。
「さあ、遠慮なく」
「私のスカートの方がこの岩より汚れているわ。気をつかわないで」
 まだ躊躇う女に、今度はユアンが笑った。
「クラトスの大切な人を無下にはできない。それに日差しは温かいがまだ冷える」
「ユアン、ありがとう」
 ぽっと頬を染めたアンナの笑顔は、背後で飛沫をあげている海を背景に切り抜かれたかのようにくっきりと見えた。ユアンの脳裏に胸の内に沈めた過去の鮮やかな思い出が吹きあがってくる。再び見るなど許されないと知りながら、彼がどこかで切望していたものだった。眩しいのは海に陽の光が反射しているからにすぎない。しかし、風に踊るアンナの柔らかな茶色の髪から目を離せなかった。
PREV | NEXT | INDEX
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送