フルムーン旅行 : センチメンタル・ジャーニー

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鄙びた漁村 -過去編- (一)

 あの日、ユアンは久しぶりにウィルガイアから離れ、地上に下りた。自分の地下組織を訪れる予定もなければ、ディザイアンの活動を調べるつもりもなかった。もちろん、神子の監視はユグドラシルが直々に行っているから、彼が触れるべきことではない。だが、この数日、これを虫の知らせというのだろうか、何者かに呼ばれていると感じていた。
 彼がウィルガイアの奥に座るクルシスの長に地上に降りると断りを入れると、ユグドラシルは肩を竦めた。
「ユアンも物好きだね。プロネーマかフォシテスでも使えばいい。汚らわしい人間どもがいる場所に何の用がある」
「たまには、あの地がどうなっているのか、自分の目で直接確かめることも必要だ。特に用があるわけではない」
 ユアンは正直に答えた。
「ふうん……」
 互いの間に目に見えない曇ガラスが何枚も立ちはだかっている。ユグドラシルはこちらに目線もくれず、溜息のように答えを返す。クルシスの長の表情はくっきりと目に入っているにも関わらず、考えていることを何一つ、ユアンに伝えない。おそらく、相手も同じことを思っているに違いない。
 ユアンは了承の言葉を待たず、かつての同志に背を向けた。両脇に侍る天使達が機械的に彼に頭を下げる。かつん、かつんと空虚な部屋に彼の足音だけが木霊した。出口の際で、ユグドラシルの声が飛んできた。
「ユアン、あれに呼ばれたんじゃないの」
 お前も聞こえたのか、と問いかえそうと振り返ると、ユグドラシルの唇がわずかに歪んだ。苦い喪失感とも見えたそれは、たちどころいにいつもの薄笑いへと変わる。答えを返そうと口を開きかけたが、結局、ユアンは黙って首を横に振った。
 大きいだけの玉座に座る白い姿は、今や、ユアンにはまるっきり見知らぬ人の影だ。探していることは知っている。居場所もおそらく突き止めているだろう。だが、まだ手だしはしていない。孤独な王は、鎖を振りきった飼い犬が荒野で疲弊し、すごすごと疲れて戻ってくるのを待っている。
 ユアンはもう一度はっきりと首を横に振り、部屋の外へと出た。ユグドラシルの関心はすでに彼から離れていることを、脊中で感じた。白く凍ったままの王は、もう一方の飼い犬には、さして興味がない。大切な姉を救えなかった者は、そのときから、ユグドラシルの関心の対象ではない。命令を出せば動く機械程度にしか思っていない。だから、機械が望むとおり働いていれば、それがどこにあろうと、他に何をしようと、どうでもいいことなのだ。そして、犬もそれを承知で動いている。
 プロネーマと部屋のすぐ外ですれ違った。
「ユアン様」
 機械的に礼をとるハーフエルフは背後から遠慮がちに声をかけてきた。
「ユグドラシル様のご機嫌は」
「いつにもまして麗しいさ」
 不安そうに問いかける女に彼は吐き捨てるように答えた。馬鹿らしい。この千年、クラトスが姿を消したときでさえ、ああ、そう、と答えた者にご機嫌の良し悪しなどあるものか。失ってはならない者を失ったときから、ユグドラシルの心の時は刻まれたことがない。かつては心分かち合う同志だった抜け殻の鼓動は止まったままだ。誰も氷よりも冷たいそれを動かす術を知らない。


 春というには、まだ肌寒い季節だった。何かの声に導かれるように、海の上へと飛び出した。冬の名残で波がしらを立てる海原は、季節はずれの漁船が数隻頼りなく浮かんでいる以外、生物の気配はなかった。魚は冷たい海水の下で休み、水鳥達は南の海から戻っていない。あの漁師達は何を獲っているのだろう。
 ユアンは眼下の遥か先にある岸辺へと目をやった。海岸線のすぐそこまで山が迫っている。長い山の連なりがそのまま急峻な崖となって海に落ちていく。波で削られた細い帯のような岩場が続き、合間に小さな白砂の浜が見える。集落は海と山の狭間にへばりつくようにある。
 猫の額のような狭い耕地が集落の脇にあるが、それ以外に平地もない。さして獲物も望めない季節でも小さな漁船は毎日海に出ているのだろう。数日の嵐で食べる物もなくなってしまう僻村では、糧を得るための努力は惜しまない。荒れた海の上を小船はふらふらと彷徨っていた。
 傾いた家々の間を幼い子供たちが走り回っている。ユアンは空中を漂い、痩せこけた犬と追いかけっこをする子供たちを漫然と眺めた。まだ冬も終わらないというのに、つぎはぎだらけの薄い服に裸足につっかけたぼろ靴。おそらく、昼間は燃料がもったいないから、炉の火も細く落とされているのだろう。子供たちは無邪気に動いているようだが、その実、この寒さの中、家の中でも外でもじっとしてなどいられないのだろう。マナの減少を象徴するよ光景は、彼の胸をひどく痛めた。
 いつの間にか、彼を引きつけていた声は消えてしまった。寂寥とした山並みの向こうは荒野が広がっていたはず。今更、衰退世界の有様をつぶさに見る必要はない。この数百年間、ゆっくりと活力を失い立ち枯れていく世界は彼が生み出している。ひょっとして彼を呼んだのは、あるべき命を無残にも切り取られてしまった何人もの神子だろうか。彼の思考を肯定するかのように、ひょうと突風が吹きつけてきた。
 ユアンはふらりと風に弄ばれながら、周囲を見回した。強い風が彼の周りを覆う。いっそ、彼が指揮をとる場所まで行こうかと思案した。予定にない行動をすべきではない。不必要な行為は隠密理に動く組織にとって、百害あって一利なしだ。ここまで来たのだから、誰にも邪魔されずに、地上で過ごすのも悪くはない。ユアンは人目のない場所に降り立とうと、集落から離れた小さな入り江へと向かった。
 泡立つ波が岸辺から伸びた磯場で飛沫をあげている。城壁のように両側に崖が切り立ち、こじんまりとした浜は白い砂で覆われていた。濃緑色の海と常緑樹の低い山に囲まれ、ぽつりと白く輝いている。ユアンはふわりと砂の上に降り立った。
 そこに彼女が立っていた。
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