フルムーン旅行 : センチメンタル・ジャーニー

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鄙びた漁村 -過去編- (三)

 ざっと打ち寄せる波の音に、アンナが日の差す方向へと振り返った。
「あら、こんなに時間がたってしまったわ」
 ユアンもその声に慌てて立ち上がった。確かに天頂にあったはずの太陽は傾いてきている。海から吹き寄せる風は強くなり、冷たさが増してきた。
「すまない。つい話し込んで、あなたの時間を無駄にしたようだ。さあ、足元に気をつけて」
 目の前にある女に手を差し出すと、アンナがまた心地良い声で笑った。
「何がおかしい」
 詰問する彼の声音にさらに笑い声がかぶる。
「クラトスからね。あなたと一緒にいた頃のこと、聞いたことあるの。あの人が騎士団の長だったとか、あなたも一緒に王宮で過ごしていたとかね。あまり、本気にしてなかった。だって、クラトスって無愛想でそんな華やかな場所にいたなんて想像できないでしょ」
 的を得た女の表現についユアンは噴き出した。
「ね、あなたもそう思うでしょ。確かにあの人、強いけど」
「遥か昔から強かった。そして、口数は以前から少なかった。だが、確かに共に過ごした仲だ。もっとも、お前が考えているような贅沢な場所にいた時間はごく限られたときだった。信じる、信じないはどうでもよいが、遠慮するな」
 ユアンは女の目の前に手を突き出した。
「クラトスの言葉、いつも信じているつもりよ。それに、今は信じるわ。だって、こんな場所で、こんな私に礼儀正しく接してくださるんだもの」
 そう言いながら、アンナは小さな手を彼の手に預けた。労働で荒れた手はアカギレが痛々しく血をにじませ、固く冷たかった。ユアンは恭しくひんやりした手を握ると、ゆっくりとアンナを引き上げた。小柄な女は予想通り羽のように軽かった。クラトスなら、とユアンは想像した。きっと、この女の腰に手を回して、抱えあげただろう。彼の両手でも簡単につかめるほど細いではないか。
「あなただから、だ。後で奴に怒られてしまう。あっと、クラトスにな」
 とってつけたようにユアンはクラトスの名前をあげた。この場にいない仲間に、理由もなく後ろめたさを感じた。
「ご親切にどうもありがとう。さ、お天気がいいうちに、もうちょっとがんばらないと。ほら、私、こんな岩場全く平気なのよ」
 彼が返答に窮している間にも、女は彼の目の前で屈託なくスカートをたくしあげ、岩場の先へと進んでいく。潮が退いたのだろう。飛沫のあがる手前の磯に、海藻がはりつている。アンナは軽い足取りで、岩から岩へと飛び移り、海藻を束ね始めた。海から吹きつける風に、アンナの柔らかな髪がなびく。ユアンはしばし彼女の姿を眺めていたが、きゃっと言う軽い悲鳴に我に返った。
「大丈夫か」
「ごめんなさい、驚かせちゃって。ちょっと足を滑らせただけ」
 明るく答える女は両手に持ちきれないほど海藻を抱え、足元に向かってぽたりと海水が滴っていた。
「ああ、私も手伝おう」
 ユアンはひょいと彼女の手から海藻の山を奪うと、波の届かない乾いた岩の上に乗せた。
「とんでもないわ。これって意外と難しいのよ。食べられる海藻とそうでない海藻があってね……」
 驚いた顔でアンナが彼に説明を始めた。
「クラトスから聞いていないのか。王宮にいた時間などわずかだった。たいがい、我々も食べ物を手に入れるために苦労したものだ。海藻どころか、野草だって詳しいぞ」
 とって返すと、ユアンも波打ち際の岩場から手当たり次第、海藻を拾いあげた。
「これはワカメだ。そして、こっちがヒジキ。この色はテンクサだな。これは海の底から打ち上げられた。こっちの岩の裏側には海苔もついているぞ」
「まあ、クラトスよりずっと知っているのね。すごいわ」
 無邪気に女が手をたたいた。その様はひどく懐かしい光景を呼び起こし、忘れ去っていた喜びと平穏の残り香がユアンの胸を揺すぶった。寄せては反す波の音は過去に聞いたときと変わらず、冷たい飛沫も吹き止まない海風までもが、彼の大切な女性と共にあったときのままだった。だが、最も貴重なその女性の姿だけが背後から射す光の埋もれてはっきりとしない。ユアンは愛しい面影を確かめようと、目を細めた。眼前の女の背後に垣間見えた幻は波に照り返す陽の光にたちどころに吸い込まれた。
「ずいぶん昔の話だ。だが、まだ覚えている」
 ひょいと肩を竦め、ユアンは海藻を拾い始めた。脇で、アンナも軽く歌を口ずさみながら、作業している。
 呼ばれたのだ。ユアンは確信した。心地よい潮風の感触、傾いてきてる長閑な春の日差し、体を動かして流れる汗。長い間味わったことのないものばかりだった。澱のように心の中に溜めている不満や疑念、怒りがどこかへと流れ出す。代わりに消えてしまったと思い込んでいた望みがひょっこりと顔を出し、すっかり錆に覆われていた誓約の輝きが垣間見えた。生きるの喜びに輝いていた仲間の笑顔がセピア色の郷愁の奥から漂い出た。
 マーテルがここまで来るよう、教えてくれたのだろう。彼女はいつだって仲間を気にかけていた。失われようとしている大樹に、弟の変節に、婚約者の優柔不断さに、唯一の人間であった仲間の危機に、心を痛めていないわけがない。
 何のために、ここまで来させられたのだろう。諭してくれる柔らかい声をもう聞くことはない。だが、彼女が伝えたいことを知らなければならない。とりとめのない思考を持て余し、ユアンは黙々と海藻を集めた。
「あのぅ」
 遠慮がちに背後から女が声をかけてきた。
「なんだ」
 滴り落ちる汗をぬぐい、ユアンは振り向いた。
「日暮れ前に、小屋まで運ばなくてはならないの。だから、もうお手伝いは大丈夫です。後は私がやりますから」
 二人が積んだ海藻の山を夕日が照らしていた。
「お前が一人で運ぶのは無理だろう。籠を貸してくれれば私がやろう」
 荒れた手を前に出して、アンナが慌てて断ろうとした。あかぎれから血が滲み出ていた。海水が沁みただろうに、ほがらかな笑顔と軽やかな歌声はその痛みを微塵も感じさせなかった。まったく、クラトスときたら、この小柄な女をもう少しだけ大切にできないものなのだろうか。軽く憤慨し、ユアンは砂浜に転がっている竹籠に海藻を移した。横でうろちょろと彼を手伝おうとする女を遮り、ユアンは尋ねた。
「小屋の場所はどこだ。海藻を広げる準備が必要だろう。お前が先に行って準備をすれば時間も無駄にならない。ここから近いのか」
 海藻を抱えあげるユアンの肩をアンナがどんと突いた。
「ユアン、あなたって本当に紳士ね。クラトスにあなたに親切にされたって思いきり自慢しちゃおう」
 ぱっと顔をあげると、吐息を感じるほど間近にアンナの満面の笑顔があった。ふいをつかれ、ユアンは滅多にないことに頬に血が昇った。慌てて下にある海藻へと屈むユアンの背にアンナが告げた。
「私たちが今住んでいる家は、後ろの崖をぐるりと回ってすぐの小さな小屋よ。一本道だから簡単に分かるわ。私、あなたの言う通りに、先に行って準備しているわね」
「ああ、分かった。すぐに追いかける」
 ユアンの後ろを軽い足音が遠ざかっていく。波のざわめきの合間に砂の蹴散らされる音に、ユアンはアンナの後姿を追いかけた。彼女は確かに生きており、デリス・カーラーンでは出会うことのない力強さに彩られている。豊かな色彩を心で感じるままに楽しんだところで、クラトスも文句は言うまい。ユアンは揺れる茶色の髪を追った。
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