フルムーン旅行 : センチメンタル・ジャーニー

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鄙びた漁村 -過去編- (四)

 夕日がアンナの背を照らし、淡い真珠色の光が辺りにまき散らされる。ユアンは目を擦った。在らぬ光だった。人には見えぬ癒しと命の息吹のマナが確かに見えた。彼は立ち上がり、アンナを追いかけようとし、思い直した。今までの会話が教えてくれた。彼女はまだ知らないのだ。最初の伝えるべき相手ももちろん気づいていない。そうでなければ、家を空けたりする仕事につかないはずだ。
 これがそうなのだろうか。
 海藻を機械的に籠へ移しながら、ユアンは自問自答する。
 啓示は与えられた。だが、それだけだ。何をすべきなのか、彼には理解できなかった。長いの一言では言い尽くせない付き合いの同志が得るであろう幸福を祝うべきだろう。あのいたいけない小柄な女が浮かべる明るい笑みが容易に想像できる。一方、彼に出来るのは、デリス・カーラーンの果てで、ウィルガイアのしわぶき一つしない空間から、二人が手にする光をせいぜい誰にも知られないように見守るぐらいだ。
 クラトスの姿がウィルガイアから消えて何年が経過しただろう。もはや、百年単位で数えるほどになっている。これも、数千年の歪みの結果だと思えば、クラトスの決意を粛々と受け止めた。
 レネゲードの活動をクラトスの前で毛ほども口にしたことはない。しかし、彼が何もない振りをしていれば、それであの男が気付かないほど鈍いと侮ってもいなかった。互いに未来を語らなくなってどれほどの時が意味もなく過ぎただろう。長い予兆を経て、ついにクラトスが姿を消した晩、彼から漠然とした不安を感じ取った。クラトスはもはやウィルガイアにはいられないのだ、罪なき者の命を奪う汚れた自分の側にはいたくないのだと考えた。
 己が選択した道が決定的な瞬間を遅らせるにしか役立たないことは、ユアンも重々承知していた。しかも、先延ばしするためには罪をない者を犠牲にするしかない。無抵抗な者を踏みにじることに義はない。だが、決定的な解決策をいまだ見つけられなかった。クラトスが去った後、何度も自分に問い返してきた。同志が彼を見捨てた理由をいくつも挙げては、眠れない夜を過ごした。そのくせ、彼は同じ過ちを続けてきた。
 痛みなど感じないはずの胸の奥がうずいた。クラトスがウィルガイアから去ると察知したときでさえ、これほど苦しくはなかった。クラトスが失った無為な時間を思えば、互いに歩んできた道を振り返れば、これはクラトスが享けてしかるべき幸いだった。長年の同志の幸福を喜ばなくてはならなかった。
 だが、口の中に苦いものがこみあげ、久しく感じなかったことに動悸を覚えた。冷たい風に嬲られながらも、体は熱かった。それは久しぶりの労働のせいではない。乱れる鼓動に、体中を血が駆け巡る。激しい嫉妬に駆られているという事実をようやくユアンは認識した。
 突然、笑いが込み上げてきた。
 石に維持されているとはいえ、自分が生きていることを忘れていた。生命に満ち溢れたこの星にありながら、生きる価値を見失っていると気づいた。彼の女神はまだ彼を見捨てていなかった。動くことも、語ることもできない彼女に知らされるとは、なんたる無様なことか。
 激しい笑いの発作に咳き込み、ユアンは磯場にへたりこんだ。相変わらずの頼りなさに、彼女がこっそりと眉根を寄せているだろう。そして、彼に向っては、励まそうと温かい笑みを浮かべるのだ。ごつごつした岩の上に仰向けにころがった。夕日に小さな雲がほんのりと茜色に染まっている。下から立ちのぼる潮の香りに酔い、繰り返される波の音に耳を澄ませ、目の当たりにできた貴重なマナの輝きを思い返した。
 クラトスが探そうとしているものが、初めて確信できた。ウィルガイアにない活気と変化に富んだ生命がそこかしこに溢れている。守らなくてはならない対象はすぐ目の前にあるものであり、星全体に広がる目に見えないものでもあった。この星を、この星にある生きとし生ける物に差別のない世界をと誓った。
 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ひょいと立ちあがった。時間を浪費してはならない。あの女のことだ。必死に準備をしているに違いない。ユアンはずしりと重い籠を背負うと、女の後を追いかけた。
 お題目のように誓いを繰り返していたくせに、肝心な事柄からは目が逸れていた。目の前にある者を守ってこそ、その先の大義に達する道が開ける。都合の良い解釈かもしれない。問いただす相手は目の前にはいない。しかし、とユアンは崖を上った。クラトスは目の前にある者を見捨てたのではない。変化のない死んだ都を出ることに活路を見出したのだ。堕ちていく彼を、起きた事実を認めようとしないかつての仲間をも救うために、その方策を求めるために外に出たに違いない。
 石に維持された変化のない生活が理想郷であってはならない。濃い絵の具も多量の水が足されればたちどころに色を失う。たとえ、差別がなくなろうと、そんな日々が、皆で夢見たこの星の行く末であってはならない。すでに失われた者を取り戻したところで、そこに自分達が求めた答えはない。今生きている、そして、これから生まれ出でる者達のためにこそ未来はある。クラトスがこれから手にする仄かな光が、あの女と分かち合うであろうささやかな歓びが指し示す先に、彼らが求めた星の未来も横たわっている。
 振り向くと、水平線にまさに日が没しようとしている。凪いだ海に伸びる光の筋がユアンを捉え、彼の影を地面へと落とした。潮風がいたずらに枯草を揺らす。その合間に、淡い緑の草が芽吹き始めていた。


 細い道は崖を越えるといきなり下り始める。やせ細った木々の間に頼りなく煙をあげる小さな小屋が見えてきた。荒涼とした周囲の風景とは対照的に、夕日に小さな窓が照り映え、猫の額もないささやかな庭には早春の花が咲いている。小屋の入り口前は崩れそうなテラスが張り出しており、そこにかかる数段の階段の上にアンナが腰かけていた。
 目の良い彼にはとうに見えていたが、どうやら女も彼を認めたらしい。立ち上がると、嬉しそうに手を振った。たちどころに、寒々とした辺りに似つかわしくない柔らかな真珠色のマナが立ちのぼる。その昔、どこだったか今では場所も定かではなかったが、彼女も輝いていた。今見える歓びの源へ、その向こうに透ける愛おしい過去へ、ユアンはゆっくりと手を振り返した。
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