フルムーン旅行 : センチメンタル・ジャーニー

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鄙びた漁村 -過去編- (五)

 ベントハイムの空虚な廊下に足音が木霊す。ユアンは彼を訪ねてきた者の姿に驚きを隠せなかった。
「これは珍しいこともあるものだ。ユグドラシル」
「足を運ばれては迷惑か」
 命令しなれた低い男の声が冷ややかに問い返した。ユアンは己の最初の反応に後悔した。彼の自室まで来てくれたのは、何年ぶりだろう。いや、何十年ぶりかもしれない。最初に素直に歓迎の言葉を出せばよかった。
「とんでもない。いつでも歓迎する。酒でもだそうか」
 押さえ気味の照明の中、古びたソファと骨董品と言うには使い込まれた一枚板のローテーブルが置かれている。ユグドラシルはユアンの案内も待たず、ソファにやや乱暴に腰かけた。ローテーブルの上には、その場に似つかわしくない桃色のアラバスターで作られた小振りな容器が置かれていた。酒瓶とグラスを用意するユアンをつまらなそうに一瞥し、ユグドラシルはその容器を手に取った。
「これはまたずいぶんとかわいらしい入れ物だな。お前にこんな趣味があったのか」
 今では作る者がいなくなった凝ったカットのクリスタルグラスをユアンはテーブルの上に慎重に並べた。淡い桃色の容器はユグドラシルの細く長い指に弄ばれる。良く似たさらに繊細な指先がたくさん並んだアラバスターの細工物からそれを選んだ。二人でそぞろ歩いていた。夕暮れ涼しいオアシスの町の露天商から買い上げた。薄暮のオアシスは涼風が吹きわたり、愛しい人は彼に感謝の微笑みをくれた。
「いや、私の趣味ではない。人にやろうと思ってな」
「ふうん」
 たちどころに興味を失い、ユグドラシルは容器を目の前に置き、用意されたグラスを手にした。
「これは」
「覚えているのか、ミトス」
 ユグドラシルの反応にユアンは気を良くして尋ねた。折角の機会を無駄にしてはならない。二人の関係が少しでも改善されるのなら、喜ばしい。
「ねえ様との想い出を忘れたことはない」
 低い声が淡々と答えた。注がれる琥珀色の液体はくるりとグラスの中で回転し、芳香を漂わせた。
「このグラスをどうしても欲しいと言った。だから、わざわざ港町まで皆で探しに行っただろう。前に目にした店では売れてしまっていて、彼女がずいぶんと落胆した。だから、小さな店先に普通に並んでいるのを見つけたときは皆で大喜びしたなぁ」
 ユアンも自分のグラスに酒を注ぎ、目の高さまで持ち上げた。薄暗い照明の中、美しくカットされたグラスの中、酒はゆらゆらと揺れ、光を放った。
「彼女が作ったチェリーブランデーを注ぐと、神の美酒のごとく煌めいたな」
 ユアンの思い出はユグドラシルの興味を引くことはなかった。氷の王は冷たい一瞥をくれると、話を遮った。
「ユアン、お前からねえ様の話を再度聞く必要はない。ねえ様との想い出を忘れたことはないからな」
「それは悪かったな」
 気まずい沈黙の果て、二人は手にしたグラスを傾けた。ユグドラシルはまるで水でも入ってるかのように一気に煽ると、グラスを置いた。ユアンは一口だけ啜り、同じくグラスを置いた。強いアルコールは喉を焼き、胃を熱くしたが、血が体を駆け巡りはしなかった。
「だが、ねえ様が何かを語りかけてくる。私はねえ様と交わした言葉をひとときも忘れたことがない。それなのに、何を伝えたいのだろう」
 ユグドラシルの研ぎ澄まされた眼差しがユアンを串刺しにした。
「お前に聞き取れないのか。それなら、誰にも無理だろう。ミトス、誰にも彼女の声は聞こえはしない。だってそうだろう。彼女はすでにこの世から失われた」
 ユアンの体が宙に浮いた。
「ねえ様は寝ているだけだ。言葉に気をつけろ、ユアン」
 完璧に操られたマナの力がユアンの首を絞める。息苦しさに足が痙攣したとたん、ユアンは解放された。咳き込んでいるユアンの前にユグドラシルが立ちはだかる。
「今回の衰退世界、神子の世代交代は順調に進んできている。そろそろ、ねえ様の器に相応しい者が出現するはずだ。今の神子で試してみたい」
「まだ無理だ、ユグドラシル」
 ユアンも立ちあがり、クルシスの長に向かい合った。二人はしばしにらみ合った。
「試してみないと分からないだろう。それとも、あれか。より血の濃い神子にあてがあるのか、ユアン」
 頭の中でユアンはせわしく計算をした。今日、あることを知らされた。そして、何か符合するかのようにユグドラシルが久し振りに彼の部屋を訪れた。はるか昔の誓約を果たすために彼に期待されている役割は、何なのだろう。
 今の会話でも明らかだ。ユグドラシルと彼の間が改善されることはもうない。それではない。では、恐るべき再生システムを停止することなのだろうか。命を奪い続けることが、無駄に血統を調整することが、解決にはつながらない。それなら、何をすればよい。どうすれば、ユグドラシルを満足させ、クラトスとあの可愛らしい女を守ることができる。あわよくば、自分自身の手を血に染めないためにはどうすればいい。
「あてはある。衰退世界の神子の血はこの数百年で純化されている。焦って、かけた時間を無駄にすることはない。次の世代までは待て。ちょうど具合のよいことに、次世代の神子が数年内に誕生する確率は極めて高い」
 氷の結晶と見紛うばかりの笑みをユグドラシルが浮かべた。
「本当だな」
「ああ、最も純血度の高い血脈は二つの家系とも適齢期のはずだ」
 己の口から出せる限界の言葉だな、とユアンも顔を歪めて笑った。彼にしたところで、人間全体に対して、いささかの偏見もないかと言えば嘘になるだろう。だからと言って、人間が家畜にも劣る扱いをうけて良いと思っているわけではない。万物は等しく生きているのだ、とマーテルがゆっくりと語っていた姿を忘れてはいない。だが、ユグドラシルはユアンの説明に平然と頷いた。
「神子の交配では、繁栄世界、テセアラで何やら揉め事が起きていた。衰退世界ではうまくやってほしいものだな」
 マーテルの言葉を忘れてない、と言ったばかりではないか。ユアンは心の中で問いただしたが、表面は大人しく了解を示した。
「分かった」
 ユアンの返事も待たず、クルシスの長は部屋の扉へと歩き始めた。
 何も語らない背中をユアンは黙って追いかけた。とうに分かり合えなくなっており、今宵もユグドラシルが何をしにきたのか、その真意を図りかねた。神子の案件なら、どのみち動くのは五星刃かその配下なのだ。彼の了解を得ずとも、好きなようにできるだろう。姉のことなら、彼と語り合うよりも、例の仰々しいシステムに収められた棺の前に一人跪いて、直接話しかけるに違いない。
 しゅんと自動扉が開く。ユグドラシルはそこで立ち止まった。
「ねえ、ユアン。次の神子が誕生したら、いよいよ待ちに待ったときがくる。ねえ様は必ず復活する。そのとき、一緒に歩んでいた者の姿が欠けていたら、ねえ様はどう思うだろう」
 やはり、地上に降りた者を気にしている。彼が地上に降りたことを知って訪ねてきたのだ。
「まだ先のことだ。クラトスもやがてはここに戻ってくる。気にするべきは神子の誕生だろう」
 はぐらかそうとするユアンを熱を持たないエメラルドグリーンの眼が観察する。不自然な間があき、ユグドラシルは再び尋ねた。
「逢わなかったの」
「奴の行方は知らない」
 旅先がどこか聞いていないのだから、嘘ではなかった。
「早々に帰る方がクラトスのためだ。クルシスの最高機関の一角をいつまでも欠番には出来ない」
 独り言のようにつぶやくと、ユグドラシルは挨拶もせずに外へと出て行った。誰も周囲にはいない。それにも関らず、ユアンは機械的に膝をつき、クルシスの長を見送った。
 何も変わらないウィルガイアの中で、ミトスだけが変化した。外見は、クラトスや彼と並んで遜色はない。内面に至っては、元の痕跡を認めることが難しいほどだ。それだけは変化のない長い金髪が無人の廊下の先へと吸い込まれていった。
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