フルムーン旅行 : センチメンタル・ジャーニー

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鄙びた漁村 -過去編- (六)

 救いの塔の出口でユアンは立ち止まった。ふところから小さな容器を取り出し、中身を確かめた。蓋をあけると、ほんのりと甘い香が漂った。彼女は何を入れていただろう。滑らかな曲線を描く容器は彼女の手に見事に調和していた。記憶の中の手はアラバスターの乳白色をしている。長い時を経てもなお、優しい癒しの手が触れていたかのように容器が温かく感じられた。
 周囲を伺うと、素早くパスワードを打ち込んだ。セキュリティシステムは己が作り上げた。だから、破ることも簡単だ。危険なのは、物言わぬ機械の記録ではなく、偶然に通りかかる人の目だ。ゆっくりと開く扉の隙間に素早く身を割り込ませ、地上へと向かった。


 小さな小屋は昨日となんら変化はなかった。だが、今にも折れそうな煙突から立ちのぼっているはずの煙がない。日に照らされ、小屋の背後に生えている松の葉の緑が黒々と影を落としている。いないのだろうか、とユアンは前庭を見た。小屋の前に広げられた台の前で女がせっせと作業をしていた。
「相変わらず、がんばっているな。アンナ、こんにちは」
 彼が近づく気配に気づくこともなく、夢中で働いていた女が手を留めた。
「まあ、ユアン。何かご用でも……」
 両手一杯に海藻を抱えたまま、いぶかしげに女が尋ねた。
「案ずることはない。たいした用ではない。昨晩でも良かったのだが、お前一人しかいないのに、夜分に尋ねるのも憚られた」
「クラトスのお友達なんだし、遠慮しないでよ」
 このご時世に無防備な言葉を吐き出す女にユアンは片眉を吊り上げた。
「もう少し注意した方がいいぞ」
「クラトスから散々言われているのだから、同じこと言わないでよ。ちゃんと分かっているわ。でも、あなたは別」
 そうだろうか、とユアンは天頂を睨んだ。彼の存在こそが最も大きな危険要因ではないだろうか。だが、それを説明すれば、女を不安にさせるだけだ。ユアンは目的の物を取り出した。
「これをお前にやろう」
 久し振りに日を浴びた入れ物は、滑らかに磨かれ、艶々と光沢を放った。薄い桃色のアラバスターをくり抜いて作られた円形の小箱は、白い小さな摘みのついたぴったりの蓋がある。蓋には摘みを中心に同心円で金色の模様が施され、一層優美に仕上がっていた。
「まあ」
 手を伸ばしかけ、アンナは慌てて首を横に振った。
「これはいただけないわ」
「アンナ、気に入らないか」
 要領を得ないアンナの反応にユアンは首をかしげた。彼女が選んだものだ。女なら誰しも喜ぶと思いこんでいた。しかし、確かに古いし、いまどきの流行からははずれているかもしれない。
「いえ、素敵よ。とても可愛らしくて、どことなく気品のある形で、見ているだけで楽しいわ」
「そうだろう。お前が使えば、とても似合うと思い、持ってきたのだ」
 彼の言葉に、アンナが頬を赤らめた。
「お気持ちはすごく嬉しいわ。だけど、こんな高価な物、いただけないわ」
 差し出す彼の手を彼女が押しやった。
「なんだ。そのことか。これはわざわざ買ったものではない。その、以前は使われていたが、長い間仕舞われていたものだ。随分と前に使う人がいなくなってな」
 まあ、とアンナが小さな声をあげた。クラトスから何か聞いていたのだろう。心配そうにアンナはユアンを見上げた。
「そんな大切な物を私に……。いいの」
「よすがにするほどの物ではない。大切な物は別にある」
 ユアンは胸の上に触れている小さな金属を軽く押さえた。
「それにだ。容器もそうだが、お前にこれを試してみて欲しい。開けてみろ」
 彼の手から怖々と容器を受け取り、アンナは蓋を開いた。
「これはクリームかしら。いい香り」
「そうだ。この白いクリームはオリーブ油に桃の葉のエキスを加えた。その昔、知っていた人も冬になると、重宝してくれたものだ。海水と風にさらされる仕事をして、お前の手が少し荒れているみたいだったから。これを使えば、多少なりとも手が痛まないようになるかもしれない」
「なんて気の利いた贈り物なんでしょう。本当に私が頂いていいの」
「ああ、お前こそ、良かったら貰って欲しい」
「ありがとう。ユアン」
 にこりと笑う小柄な女は、彼の目に眩しかった。もうしばらく、この小さな安らぎの空間にいてもいいだろうか。ユアンは瞬時に自分の考えを却下した。彼がいる時間は短ければ短いほどよい。二人の生活に新たな希望が加わろうとしている今、必要なのは、クラトスの過去のしがらみから切り離された安寧の時間だ。
「どういたしまして。ちょっとした思いつきだ」
 軽く礼を返すと、ユアンは一歩下がった。退け時を誤ってはならない。彼自身はともかく、この女とクラトスを危険にさらすなど以ての外だ。
「アンナ、あなたと会えてよかった」
「あら、私こそ。お手伝いもしてもらった上に、素敵な贈り物をいただいちゃったし。それに、クラトスが出かけて一人ぼっちだったから、とても楽しい時間が過ごせたわ」
 透明な笑顔を浮かべるこの女ともう少しだけ話していたい。軽く胸が疼いた。どうにか、ユアンは自分の感情をねじ伏せた。自分でも知らなくてよいことだし、少なくともクラトスに知られてはならなかった。
「私も楽しかった」
「クラトスがいれば、もっと良かったわね」
 無邪気に女が相槌を打った。
「そうだな。奴によろしく伝えてくれ。まだ、風も冷たい。働きすぎないように自分を労わった方がよい」
「ご親切に、ありがとう」
 朗らかに答える女は美しかった。この女の愛情を勝ち得ているクラトスが妬ましく、今、この瞬間の彼女の姿を知るのは自分だけ、とちっぽけな満足感を覚えた。
「アンナ……」
 去ろうとする彼女の手をそっと掴んだ。軽く握った手を持ち上げ、労働で荒れた指先に口付けを落とす。ただの別れの挨拶のつもりだった。
 彼の唇が触れる指先はひんやりとしていた。彼の手に少し留まっていた手は唇の熱さに少し震え、やがて優しく引き抜かれていった。何気ない仕草だったのに、口付けのときは彼の感情を隠すにはわずかに長く、指先が下げられるときは、彼女が気づいていないふりをするには短かった。
 二人は互いに目を逸らしたまま、沈黙の中に立ちすくんだ。
「もう会うことはないだろう」
 どうにか、ユアンは告げた。そのまま、海へと通じる道をたどり始めた。答えは期待していなかった。だが、背後から明るい声が答えてくれた。
「忘れないわ、あなたとここで会えたこと」
 彼は答えず、振り返らず、道を登り続けた。ひゅうと吹きつける風に女の声は散って消えていく。淡い黄色のマンサクの花が崖の脇で揺れている。
 忘れてくれていいのだ。ユアンは喉の奥で音もたてずに笑った。自分は忘れないのだから、それでいい。春も深まれば、この辺りも緑に覆われるだろう。溢れるほどの草花や緑の中で、二人には来るべき歓びにだけ浸って欲しい。彼のことを思い出せば、その光に必ず影を落としてしまう。だから、忘れてくれればいい。そう願った。
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