フルムーン旅行:センチメンタル・ジャーニー

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トリエットの夜 −二人旅編(三)−

「クラトス」
 薄暗い部屋の向こうから声をかけられ、寝台の中で横向きに寝ていた者は返事をせずに、さらに敷布の中へと潜り込んだ。寝台脇の小机に置かれている夜間用の照明に、飛び出した赤い髪が黒ずんだ影を伸ばした。
「クラトス」
 その姿に恋人が半ばあきれ、半ばおかしそうな声で再度呼びかけた。クラトスは耳に優しく響く恋人の呼び声を夢うつつに聞き、満足そうに枕に顔をうずめる。ユアンの残り香がふんわりと漂い、空いた隙間の温かさに、恋人が起き出したのも少し前と知れた。
「……」
「クラトス、素晴らしい眺めだ。起きてみろ」
 いつもであれば、逆の立場にいるはずのユアンが執拗に呼ぶ。
「まだ、早いぞ」
 クラトスはもぞもぞと寝返りし、ユアンの声をする方へと目を向けた。開け放した窓から見える茜色の明け空を背景にユアンが立っている。長く青い髪がさらりと体の動きに合わせて流れ、彼が愛して止まない整った顔を引き立てている。濃い青の髪の隙間に見え隠れする肩がまだうす闇の中で白く艶かしい。
「ああ、確かに素晴らしい眺めだ。だが、ユアン。それでは朝方はまだ寒いだろう。何か羽織るのだな」
 風が広く開いた窓から吹き寄せ、気まぐれに愛する者の髪を乱した。ほっそりとした首筋や意外と筋肉のついている胸が露わになる。恋人のあられもない姿に、クラトスは一瞬目を見開き、しかし、開け放たれた窓から吹き込む冷たい風にずるりと毛布を引き上げた。
「馬鹿なことを言うな。クラトス、外の景色のことを言っているのだ。こちらに来てくれ」
 ユアンの笑い声がすぐ側まで近づいたかと思うと、いきなり上掛けが払いのけられた。何も身につけていない剣士は慌てて敷布を引き上げる。
「いい眺めは貴様の方だろう。おはよう」
 しぶしぶ起き上がるクラトスの頬へ軽く朝の挨拶を与え、ユアンはじれったそうにクラトスの手を引いた。
「やれやれ……。ほら、お前も着ろ」
 椅子にかけてあるローブをユアンに放り投げ、クラトスも素早くローブに袖を通す。窓からの新鮮な空気にたちどころに目が覚める。
 開けられた窓の先には申し訳ほどの小さなテラスがあり、その先にナツメ椰子の木々の間を通して、海のようにうねりながら広大な砂漠が広がっている。
 東の空がほんのりと茜色に染まり、砂丘の連なりに複雑な影の文様を作り上げている。濃い紅のベルベットがふわりと広げられたかのように、輝きと影とが入り混じり、刻々とその姿を変えていく。
 悠久の大地の片隅で、自然が意図なく生み出す美に酔いしれたのは何時だったのか。疲労困憊して、身動きもままならなかった。互いに支えあい、今度は駄目かもしれないという絶望感が一行を支配していた。そのとき、東の空に曙が見えた。砂の上にはくっきり鮮やかに模様が描き出され、筆を持たずに美を生み出すそれは地の向こうから徐々に姿を現わそうとしていた。
 感嘆の声を上げたのは黄金に輝く少年だっただろうか。それとも、若草色の髪を靡かせていた乙女だったか。日の落ちている間に移動をしなくてはならない、と気ばかり急いていて、つい答えを返しそびれてしまった。今にも崩れ落ちそうな乙女を支えていた彼は何と答えたのだろう。あのとき、振り向いた彼の目に彼女の耳元に囁いているユアンの姿が焼きついた。
 クラトスは自然が生み出す奇跡に魅入られ、湧き上がる過去の思い出に身動きも出来なかった。わずかな空気の動きに、脇に立っていたユアンが彼に体を寄せてきたことに気づく。
「クラトス、ショーの始まりだ」
 ユアンの腕がするりと腰の周りに伸ばされた。まだ日の差さない肌寒い空気の中で、互いの体温がほんのりと心地よく、クラトスも素直にユアンの腕の中にと収まった。
 見る間に、地平線に太陽が顔を覗かせた。その陽の動きに、砂の色は濃い紅から淡い色にと変化し、磨きぬかれた薔薇色の大理石のようにも見える。瑪瑙の縞のように砂丘の背が細く長く太陽の向こうまで続き、日の届かぬ先は柘榴石の暗い輝き。
 全てが赤に彩られる朝焼けの中、前を見据えるユアンの目だけが澄み渡る夏空の色だ。目前で繰り広げられる色の魔術はやがてこの空の色へと吸い込まれていく。長く伸びる影の中で息を潜めていた小さなトカゲもかさこそと動くサソリも、青空の下では何物もくっきりとその姿は地に映し出され、偽ることはできない。
 クラトスは引き寄せられるように横を向き、ユアンの顔を見つめる。愛しい者の横にあるのは、今は彼なのだ。それは、決して後ろ暗いことでも躊躇うことでもないはずだ。だが、ほんの些細な過去の思い出が積み重なり、枷と化し、クラトスの唇から出ようとした言葉はまた胸の奥へと引き返す。
 ユアンは目の端に入ったクラトスの様子に、問いただしたい己の気持ちを押さえ込んだ。大切な者がその物静かな態度や確固たる物言いの下で、揺れ動く心を隠していることに気づいていないわけではない。だが、営々と長いときをかけて築きあげられた壁はそう簡単には崩せない。しかも、そうさせてきたのは、この自分であるからなおさらだ。
 代わりに、彼は景色へと意識を向ける。
「まるで、クラトスの目のようだ。深い真紅だったかと思うと、日に照らされて明るい琥珀に変わる」
 クラトスはその言葉にユアンをまじまじと見て、くすりと笑った。ユアンはその意外な反応に思わずクラトスの方を向く。
「何か変なことを言ったか」
「お前が変わらないから」
「何のことだ」
「覚えていないだろう。四人でこの砂漠を渡ったとき、砂嵐が過ぎ去った直後の明け方の景色を見てそう言っただろう」
「ああ、貴様が隊商の痕跡を見つけたときだな」
「そう、夜中歩いて、もう精魂尽き果てたかと思ったときにこの素晴らしい景色でずいぶんと癒された」
「半日口を利いていなかったミトスが大喜びしたな。だが、クラトス、貴様だけは道を探してばかりで、景色などどこ吹く風だったはずだが」
「まあ、そうだったかもしれない」
「あのとき、必死になって道を探っていたクラトスにこんなことを言っただろうか」
「いや……」
「笑うな。どうせ、私の考えていることなんていつも同じだ」
「誰かに言っただろう」
「彼女から聞いたのか」
「さあな」
 クラトスは流れ落ちているユアンの髪を指先に巻きつけ、その肩に頬を寄せ、再び日の昇る方を見る。無骨な指が生み出す柔らかい感触に安堵を覚え、ユアンは触れるだけの口付けを朝日に赤らむ大事な者の頬へと与えた。
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