転回

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 すでに何度その傍らに立っただろうか。今日もこっそりと崖際から塀を伝わり、忍び込む。


 彼女は私を待っているだろうか。何か騒ぎが起きて、来られないのではないか。共にここを逃れるための手段を考えてはいるが、監視が厳しく、他の囚人を巻き込まずに逃げ出すことはほぼ不可能だ。彼女は自分のためだけに逃れることを良しとはしていない。


 使われていない建物の背後のゴミゴミと不要物が置かれた影に彼女が立っている。その姿は儚く小さく、まるで今日の暑さに揺らいで消え去ってしまうかのようだった。
 いつ会えるのかは、その日会えるかどうかも、行くまで分からない。使役されている者の都合など、監視される者のご機嫌次第だ。その可憐な姿が見えないときには、クラトスはいつもヒンヤリとした怯えを胸に感じた。
 できる事なら、今、この場から連れ去ってしまいたい。彼の力なら、簡単にできる。だが、彼女はそれを望まない。それに、彼は、彼女に自分の真の姿を見せることに躊躇いを覚える。彼が最もにくむべき支配者に属していたことを、いや、今でもその支配者の輪を断ち切れず、己の身の内に抱えこんだままであることを彼女はどう思っているのだろう。
 聞かれるともなく、今までのことを簡潔に話したとき、彼女はただ悲しそうに彼の話を聞くだけで、一言も口を挟まなかった。彼が謝ろうとすると、ゆっくり首を振って、その言葉を止めただけだった。あれから、一度もその話が互いの口に上ったことはない。
 色白な彼女はクラトスが近づく気配にぱっと顔を上げ、嬉しそうに手を振ってよこした。無邪気な彼女の反応に、彼はまた後ろめたさを覚える。
「待たせたか」
「大丈夫。私も今来たところ。今日はどうやら、また、新しく人が連れて来られたらしくて、私達どころじゃないみたい。ああ、あの人たち、いつまでこんな恐ろしいことを続けるのかしら」
「すまない」
「クラトス、あなたが謝ることではないわ」
「私が……」
 彼女は背伸びするかのようにつま先立ちをし、彼の唇の人指指をあてた。
「クラトス、あなたの気持ちは言葉にされなくても分かっているわ。私、あなたにそんなつらい顔をして欲しくないの」
 まるで、彼の方が囚われ人であるかのように、彼女は優しく包み込むような微笑みで彼を癒した。
「もうすぐ、夏至の日ね。私、あの後、あなたがまた町に来てくださればって待っていたの。本当はね。あの花束をあげた次の年に、互いに贈り物をするのが慣わしだったのよ」
「それはすまない。知らなかった」
「ううん。気にしないで。だって、あなたは旅人で、あの日に私たちが出会えたのは偶然ですもの」
「いや、あれは偶然なんかではない。運命だったのだ。だから、また会えた。そう思ってはだめか」
「クラトス、そんな事を言って下さるなんて、私にはもったいないわ。そう、それで夏至の日の贈り物のことなのだけど、今日は監視の目が緩かったから、どうにか持ち出せたの。今、渡してもいいかしら」
「え……」
「クラトス、目をつぶって、手を前に出して。本当は包みたかったのだけれど、ここには何もないから」
「アンナ、私はお前から……」
「お願い」
 彼女の目に浮かぶ強い光に、彼は勝てない。言われたとおりに、目を閉じ、手を差し出すと、ひんやりとした物が手のひらに乗せられた。
「目を開けてもいいわよ」
「これは、ずいぶんと大切そうな物ではないか」
 小ぶりで上品だが古風なデザインのペンダントが彼の手の上にある。優雅に楕円をぐるりと飾る部分は金が使われているようだ。細い鎖は頼りなく日の光に揺れ、彼女の細くて白い首に掛けられているなら、さぞかし美しいだろう。
「私のおばあ様にずっと前に貰ったのよ。素敵でしょう。おばあ様はおじい様から贈られたのですって。……。家族ができたら使って欲しいと言われたけれど、多分、私はここにいるだけだから。良かったら、あなたに使ってもらえないかしら。きっと、あなたの家族に伝えてもらえれば、いいなと思って」
「私の家族……」
「ああ、ごめんなさい。そんな顔をしないで。あなたを困らせるつもりではなかったのよ。他に私、何も持っていないから、贈り物になりそうな物はそれしかなかったの」
 彼女は、彼の当惑した表情に慌てて取り替えそうとした。彼は、さっとペンダントを握りこむと、どうにか微笑んだ。
「お前の贈り物を返すわけにはいかない。ありがとう」
「貰ってくださるの」
「もちろんだ」
 家族。懐かしい響き。ずっと忘れていた言葉だ。彼にも家族はあった。家族同然の同志達もいたはずだ。だが、今はどうだ。孤独に過ごしてきたこの数百年の間、ノイシュは共に歩いてくれてはいるが、生憎口を聞いてはくれない。その言葉が思い出させる温もりはずいぶんと長い間彼の周りにはなかった。
 今、彼女の口からこぼれる響きに、彼の胸はずきりと寂しさに痛み、彼女の眼差しに忘れていたはずの温もりを感じる。
「アンナ、ありがとう。大事にするよ」
「クラトス」
 彼女の幸せそうな表情が眩しく、目を細める。もっと、喜ばせたい。夏至の日はもうすぐだったはず。
「今日は、私は何もお前に贈るものがない。だが、次に会えるときには、私にもアンナに贈り物をさせてくれないだろうか」
 少女はその言葉にいかにも嬉しそうな表情を浮かべ、しかし、ここでは何も使えないからと断りを口にした。彼が、何が欲しいのかと重ねて尋ねると、そっと俯いて顔を赤らめ、口ごもった。
 それから、意を決したように顔を上げると、彼の目をその優しく包み込むような茶色の目が見つめる。
「紅が欲しいって言ったら、おかしいかしら」
 その彼女の表情に心奪われ、返答が遅れる。その彼の一瞬の沈黙を勘違いしたのか、静かに頭を垂れ、彼女が首を横にふる。
「嘘。聞かなかったことにして。おかしいわね。こんなところにいて、変よね」
「そんなことはない」
 それどころか、温かい眼差しに、かわいらしい口からこぼれる声音に、彼女全体から溢れる優しさに魅入られている。
「多分、もうすぐ会えなくなるわよね。そう思ったら、あの夏至のときのように、もう一度だけ少しきれいな私をあなたに見てもらいなんて、つい、思ってしまった。馬鹿みたいでしょ」
 そう言ったかと思うと、自分が口にしたことに驚いたように少女は顔を背けた。そして、慌てて彼から離れようとし、その背中が壁にあたり、わずかに荒い息が聞こえた。
 何と言われたのだろう。今だってきれいだ。だが、私に見てもらいたいということは、ひょっとして好意をもたれていることだろうか。かすかな希望が強い願いへと心の中で形を変えようとする。
 少女は己の言ったことを恥じるように頭を振り、力なく続ける。
「クラトス、今言ったことは、忘れて。もう、ここには来ないで」
 彼女は彼の方は見ず、壁に身をよせてさらに俯く。
「私が来るのは嫌か」
「嫌。もう一回会いたいって、つい、願ってしまうから、嫌。あなた去った後にもう会えないのかと思うと怖いから嫌」
「私もそうだ。お前に会うのは苦しい。明日は会えないのではないかと思うと、気がおかしくなりそうだ。だが、会えないのはもっと苦しい」
 壁の前の細く小さな体をそっと包み込む。腕の中のかぼそい体は、こちらを向くことに抵抗したが、彼はもう躊躇わなかった。
「クラトス、離して。お願い、これ以上、私を苦しめないで」
 離さない。いや、離すことはできない。彼の心の中に膨れ上がった願望は強い衝動となり、腕の中でかすかにもがく少女を胸にしっかりと捕らえる。
 涙にぬれる痩せた顎を捉え、その口が訴える言葉を飲み込むように口付ける。彼から離れようと、彼の胸をたたいていた腕はその力を失い、やがて彼の背にそっと回される。
 どこか、頭の片隅でこれが初めての口付けであることに気づき、しかし、己の衝動に深さに突き動かされるだけだ。
 おずおずと触れ合っているだけの柔らかい唇を舌でこじあけ、わずかに開けられた歯列の間に忍び込み、何がおきているかわかっていない彼女の舌をなぞる。驚きに離れようとする頭をしっかりと押さえ、もう一方の腕でその細い腰を支える。
 彼を引き剥がそうと背に回された手が彼のマントを握りなおし、縋るようにマントが引っ張られると、侵入した彼の舌にほんのわずか応えるようだ。その感触に思い切り、柔らかい彼女のそれを吸えば、後は彼の望むままに素直に反応する。


 我に返ると、彼にきつく抱きしめられて、彼女はただ涙をこぼしていた。
「泣かないでくれ。すまなかった。気を悪くしたか」
 彼は今更のように自分の押さえ切れなかった衝動に驚き、謝る。彼女はゆっくりと頭を横に振った。
「違うの。嬉しかった。こんな私のことを気に入ってくれて本当に嬉しい。でも、これで会うのは最後にしましょう」
 アンナは彼から離れようと再度もがいた。だが、彼は腕を緩めるような愚かなことはしなかった。愛する者をこの手からすり抜けていくようなことは、もうさせない。
「何を言うのだ。私が必ず何とかする。だから、だから、私を見捨てないでくれ」
「あなたを見捨てるなんて、そういうつもりじゃなの。クラトス。でも、……」
 彼女は半分涙に濡れた優しい瞳で彼の心の奥底を見通すように見つめ返した。
「だって、あなたにはしなくてはならないことがあるのでしょう。話をしてくださったわね。救うと誓った人がいるのでしょう。私はあなたの邪魔になりたくない。あなたに誓いを破らせたくない」
「それは……」
 彼女の眼差しは優しく、真っ直ぐと彼の心に届いた。だが、もう選択はすでになされた後だ。彼もその問いに真摯に答えた。
「確かにお前に話したように誓いは立てている。しなくてはならないことがあるのも確かだ。だが、アンナ、お前が側にいてくれなければ、私は何もできない。だから、私の誓願を成就させるためにも、アンナ、お前の側にいさせてくれ。お前を守らせてくれ」
 彼は自らの腕の中にいる少女を解放し、ひざまずいた。少女がその動作に驚き、何も反応できないまま立っていると、彼は少女の手を取り、その甲に口付けを送った。
「すまない。順番が逆だったかもしれない。だが、私の本心はさきほど言ったとおりだ。アンナ、どうか私を受け入れてくれ」
 彼の求愛にしばらく反応しない少女の態度に不安を覚え、見上げれば、少女が真っ赤になったまま、彼に取られていない方の手で口を押さえていた。
「……」
「アンナ、返事は」
 再度、少女の手の甲に唇が触れれば、ぴくりと指が震えた。
「クラトス、あなたって、今日は何でも強引すぎるわ」
 ようやく我に返った少女はかすかに語気強く彼を詰り、しかし、空いている手が彼の手に添えられた。
「クラトス、あなたを愛しています」
 少女の声は真っ直ぐ彼の心を貫き、長く空っぽだった場所を埋めてくれた。彼方で別れを告げた者の代わりとしてではない。全てに代わりがないことは、今も彼の心の中にある同志が教えてくれた。
 過去を捨て去るのではない。彼の心にある過去の大地の上に新しく築かれるもの。これから、二人で、与え、与えられ、受け取り、差し出すもの。長く、もう求めてはならないと思っていたものは、すっかりその色も形も何もかも忘れ去っていたはずの彼の前に、突然、現れた。


 ずっと捜し求めている事への手がかりは今だ見つからない。長きに渡って探すことに倦み疲れ、もう先へは進めないと呻いていた彼に、一筋の光が与えられた。
 数千年前に確かに持っていたものが、心の奥底から湧き上がってくることを感じた。見失っていたものへの道筋がかすかに感じられる。それを何と呼んでいたのだろう。
 夢。
 希望。
 未来。
 立ち上がり、少女を今度は優しく壊れ物のように抱きしめると、小さな体はさきほどとは違い、ゆったりと彼の体に委ねられた。
「ああ、私も愛している」
 耳元でつぶやく彼の声に少女の腕がおずおずと彼の背に回された。今度は互いに見つめあい、静かに二人の唇が触れ合った。


 これはあの夏至の日に二人に与えられた定めであり、今、ようやくその第一歩が始まった。二人が立っているその場所とは不似合いな周囲を囲む深い森の木々の葉ずれの音が寄り添う二人を包み、柔らかな夕風にのって山百合の香が届いた。夏の夕空に、まるで妖精が振りまく粉が散りばめられたかのように、黄金色に雲が輝く。

 
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