拍手小話

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雨:逃避行

 振り返った山道の上を雨水が勢いよく流れ落ちていく。傭兵は額に張り付く長い前髪が視界を遮っていることに気づき、横へと除けた。雨雲に覆われた山並みはぼんやりと霞んでおり、登っていく道がどれほど長いのか、見当もつかなかった。動くのも苦しいほどの湿気にクラトスは息をついた。
「大丈夫か」
 背後から声を掛けられた。
「ああ、どうにか」
 蒸し暑いはずなのに、雨に打たれた体は芯まで冷え、ずきんと彼を悩ませている脇腹の痛みはますますひどくなっていた。山道は二手に分かれ、先を歩いていたクラトスはどちらを選ぶか、立ち止まった。ユアンが背後から追いすがってきた。
「クラトス、本当にこのまま山越えする気か」
「ゆっくりしている時間はないとお前も言っただろう。追っ手からは十分に離れたが、明日になれば、また視界も利くようになる。霧が深い今が機会だ」
「貴様がおとりになってくれたことは感謝している。だが、どうしてミトスの言うとおりにしなかった。すぐにあの場を離れてくれて良かったのだ。マーテルもミトスも昨晩、あの地からは逃れている」
「伝令が走っているのが見えた。ユアン、お前が待ち伏せされていることを教えなくてはならなかった」
「確かに助かった。だからと言って、相手は多勢に無勢だ。私だってそれなりに戦える。一人で無理するな。貴様とて、限度がある」
「お前が無事だったから良いではないか」
 二人はにらみ合った。周りの湿度がさらに高くなり、雨か汗か分からないものがクラトスの額を伝わり落ちた。対するユアンは濡れて濃くなった髪もさして乱れず、いつものように涼しげな表情だった。だが、その口調は不安と苛立ちで厳しかった。
「よくない。貴様が怪我してどうする。まだ、血が止まっていない」
「雨で濡れているだけだ」
 クラトスの横に来たユアンは傷口のある場所に触れた。
「これは雨に濡れているのではない。血がまだ流れている」
 差し出された指先は赤く染まっていた。クラトスは先だけ染まった白く長い指を凝視した。いきなり、ユアンに触れられて、冷え切っていた体を血が駆け巡った。
「回復術を使えと言いたいところだが、私もお前も術を使うには消耗しすぎだ。一息いれよう」
 ユアンはクラトスの体に腕を廻し、彼のマントの中へと包み込んだ。
「止めろ。お前が汚れる」
 クラトスは弱々しく抵抗したが、ユアンは何も言わずに道の脇へと彼をひっぱった。ユアンの腕の力が強いのか、血を失いすぎたのか、クラトスは抵抗することができなかった。
 岩が張り出してかろうじて雨が避けられる崖下へと、ユアンに導かれるままに進む。ユアンの腕が彼の体を支えると、どくんと心臓が跳ね上がり、いっそクラトスの傷も疼いた。
 昨年の落ち葉が積もった窪みは湿った土と黴のにおいがした。崩れるように座った二人の勢いに粉々になった枯葉が舞い上がった。触れ合う場所から、相手の体温がじわりと浸透してくる。ユアンの手がクラトスの頭を彼の肩へと寄せた。なされるがままに、クラトスはユアンの体温を感じていた。
 初夏のしのつく雨が葉を打つ音だけが響く。緑濃い森は霧にけぶり、クラトスとユアンの気配をも覆い隠す。
 ユアンの手が優しくクラトスの髪を撫で、湿ったマントの内側には二人の汗とユアンの香が漂った。やがて、ユアンがぽつりと口にした。
「マーテルは逃げ延びただろうか」
 雨音に紛れて聞こえる名前は切なく響いた。クラトスは答えを返さなかった。彼の人の名がユアンの口から零れるのを聞こえなかったふりをする。せめて、このときだけでも、彼だけを見てくれたなら。まだ血の止まらない傷よりも、そう考える心の奥底がじくりと痛んだ。
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