拍手小話

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雨:追跡

 昨晩の大雨はすっかりあがったようで、ようやく覚醒してきた耳に早起きな鳥達の囀りが聞こえた。空も白々としてきたようだ。開いた目の先で、扉の隙間が白く見えた。

「大丈夫かい」
 隣で動かない者に声をかけた。返答はなかったが、体が少し動いた。夜中に何度も息をしているのか確かめたが、意識が戻ったかどうかまでは分からなかった。上から覗き込むと、わずかに開かれた口から荒い息がもれ、目は閉じられたままだった。顔色は昨晩ほどではないが、相変わらず真白だ。唇は乾いてかさかさしていた。たまらず、指先でその薄い唇に触れると、相手の目が開いた。
「水……」
 すっかり掠れた声がそうつぶやくと、力ない瞳は静かに閉じられた。携行してきた水筒はとうに空っぽだった。まだ、覚束ない薄明の中、彼は寝ていた藁くずから這い出した。廃屋の床は彼の重みでぎしりと音を立てた。彼はごくりとつばを飲みこみ、動きを止めた。周囲の鳥の声は止まず、ぽたりぽたりと屋根から落ちる雫の音までもが聞こえる。他には何も気配がない。ここまでは、人間が近づいてくることはないだろう。
「もう少し様子が分かったら、水を探してみる。それまで、辛抱して」
 赤茶けた髪がかすかに動き、彼の言葉を聞いていることを教えた。
「ねえ、クルシスに戻ってくるつもりはないの」
 返答はなかった。少しだけ、瞼が動いたかもしれない。唇が何かを答えようとしたかに見え、このうす暗がりでは判然としなかった。
「いつまでも逃げられるとは思っていないよね」
 再度尋ねたが、今度も返答はなかった。
「こんなくだらない追いかけっこ。いつだって、止められるんだよ。だけど、お前が自ら止めてくれるのなら、それが一番だ」
 当然、これにも返事はなかった。


 傭兵をしていると報告は受けていた。だから、顧客を守ろうとする彼の行動を非難するつもりは毛頭ない。当然の行為だ。許せないのは、ただ一つ。彼を敵と見做しているようなその態度だ。
 わざわざ、この姿で現れた彼を見て、なぜ「すぐに逃げろ」と背後に向かって叫ぶのだ。彼と同じ背格好のかわいらしい金髪の少年が首を傾げていた。とたんに、むかむかした。訳のわからない闇が彼の周りを囲んだ。
 気づいたら、彼の手から放たれた業火を止めようと傭兵が立ちはだかっていた。だが、すでに遅く、か弱い子供は炎の中へと姿を消した。何もわからずに大きく見開かれた目が彼を凝視していた。ゆっくりと崩れ落ちる傭兵は一度も彼と目を合わせなかった。
 なぜ、この男が前に出て遮らなければならない。傭兵だからと言って、そこまでする義理はないだろう。大切な者は皆、彼の側から去っていくのだ。止めようとすると、さらに遠くへと、手の届きそうで届かない場所へと後ずさっていく。
 姉は目の前にありながら、決して彼に言葉をかけてくれることはない。姉の婚約者は、彼のまん前で遥か彼方を見つめ、彼と目を合わせなくなって久しい。彼へ忠誠を誓った者は、証である封印を抱えたまま、彼の前から姿を消した。


 少年はふらりと立ち上がると、こういう廃屋の脇においてあるはずの樽を探しに出た。昨晩の雨がどこかに溜まっているだろう。このままほっておいても、身の内に抱えている石があの男をもとへと戻すだろう。肉体だけなら、簡単に戻る。
 再び、空が暗くなり、ぽつりと雨が頬を打った。
 痛みを感じなくなった互いの心は誰が癒してくれるのだ。
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