拍手小話

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春の庭

 日が落ちるまでの時間がすっかり長くなった。
 窓際に設えられた仕事机に頬杖をつき、ユアンは花の咲き乱れる庭を物憂げに眺めていた。ふわりと吹き込む風も暖かく、風の精が彼の周りをぐるりと周っていくのが分かった。何もかもが新たに生まれくるこの季節、風の精の息吹を感じると、彼もすっきりと、生まれ変わったかのように感じられた。
 何もこの素晴らしい季節に、机の前に固まっていることもないだろう。持っていたペンを机の上に置き、ユアンは立ち上がった。色取り取りの庭先に人影が見えた。
 大きく開けられた窓から軽く飛び降りる。さわっと柔らかい芝の感触を確かめるように、そのままユアンは屈んだ。新緑の柔らかさを手の平で楽しかのようにそっと撫でると、様々な花たちで彩られた先を見つめた。この庭は、主がそうであるように、ごく何気ないままに置かれていながら、植えられている木の梢から風にそよぐ柔らかい草まで、互いに調和し、人の心を癒してくれる。
 丈高く伸びたスイートピーが昨年の冬に彼女が作った細い竹の柵に見事に絡みつき、薄い桃色の花を咲かせている。その下には、彼の目のように青いツリガネソウがまるで下生えを覗き込むかのように俯き加減に花を揺らしていた。原種の小さなチューリップが真っ赤な花を星のように広げ、周囲をムスカリがぐるりと囲んでいる。
 小さな空間は、春をうまく切り取ってぴたりとはめ込んだように、それだけで完結していた。ユアンは髪留めをはずし、長い髪を風に靡くままに流すと、芝生の上へところがった。夕暮れにはまだ遠い空には、小さな羊雲が二つ三つと流れて行き、その後を追うかのように、雲雀が空高く舞い上がるのが目に入った。鳥達のように、何にも縛られることなく、どこまでも飛んでいけたら。
 らちもないことを考え、ユアンは目を瞑った。戦乱の世を過ごすこと、すでに数百年は立っているだろう。この庭で過ごすことのできる春の数など、今までのときに比べれば、ほんのわずかのときだ。数年も立てば、再び、平和を求めて、別の地へと旅立たなくてはならないだろう。
 ほのかに甘い香がしたかと思うと、彼の上に影がかかった。うっすらと目を開ければ、思ったとおりの細い姿が彼へと手を伸ばしていた。
「マーテル」
 伸ばされた手を取りながら、ユアンは起き上がった。
「どうしたの。急に窓から出てくるから驚いたわ」
「春の精に誘われたのさ。君のいる春の庭が魅惑的で、つい飛び出してしまった」
 己の手の中にある、細く優美な指先へ軽く口付けを送った。
 さきほどまで、花の手入れをしていたせいなのだろう。マーテルの指先からは、甘い花の香と青い草のにおいが立ち上り、ほんの少しだけ、彼女が持っていたであろう庭鋏の鉄さびが混じっていた。それは、まるで自分達のようだと、ユアンはぼんやり思った。二人がいるこの空間がどんなに穏やかであっても、戦さのきな臭いにおいが消えることはない。それは、忘れたころに背後からするりと忍び寄り、彼の大切な人の顔を曇らせる。
 せめてこのひと時だけ、許された静けさを分かち合いたい。ユアンは握っていた手を引き寄せると、マーテルはにこりと微笑んで彼の横へ座った。
 花よりも赤く、蜜よりも甘い唇へ、ユアンは優しく口付けを与えた。
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