拍手小話

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タタル渓谷

 気持ちの良い夕暮れだった。脇を流れる沢の音も涼しく、豊かな自然は戦い続きの仲間の気持ちをほぐす。イオン様も周囲の緑溢れる景色が功を奏したのか、いくばくか元気な足取りだ。アニスはきょろきょろと周囲を見回した。決められた陣形を守り、ルークとガイは先頭を歩き、二人にしか分からないくだらない冗談を言ってはじゃれあっている。ティアはまるで母親のように、背後から二人を見守っていた。
 道はずっと渓谷沿いにゆるやかに上っていく。川の側にアニスが、その横をイオン様が歩いている。生憎というか、運の良いことに、道幅が狭いから、大男の軍人はナタリアと一緒にアニス達の背後を歩いている。あの男の性質の悪い冗談を聞かずにすむ。背後では、例によって例のごとく、大佐が気まじめにして文字通り深窓の令嬢であるナタリアをからかっている。
「ナタリア、ご存じですか。この渓谷がこれほど豊かな自然を残してる理由を」
 アニスは聞くともなく、男の声に聞き耳を立てていた。大佐が誰と話そうがあの男の勝手だ。それがナタリアだからとか、そんなことで断じてこのアニスちゃんが気になっているわけではない。だけど、ナタリアには世話になっているから、あのとんでも男が何か仕掛けてきたら、助け舟を出してあげるつもりだ。だから、聞いている。自分の胸に言わずもがなの言い訳をアニスは繰り返した。
 ご存じですか、と言う男の声からして、すでにたちの悪い喜びに満ちているじゃないのさ。アニスはふんと鼻を鳴らした。よせばいいのに、ナタリアは好奇心まんまんで問い返している。
「まあ、大佐。それはこの地域が特にフォニムに溢れているからではありませんの」
「それも一つです。確かにセレニアの花畑は美しかったですね。ですが、他にも理由があるのです。人が滅多に入ってこないのですよ。ここには」
「まあ、そうおっしゃられますと、確かに人の影が見えないですわね」
 ナタリアったら、どうしてあの男の言うことをいちいち間に受けているのだろう。アニスの足音が心なしか荒くなった。
「それはですね。ここには何か人知の及ばぬ物が出ると昔から言い伝えられていて……」
 男の声の調子に、アニスまでもがどきりとした。薄暮の中、ルーク達の影が長く伸びている。
「ほら、そこに。ナタリア」
 きゃっと言う声に、全員が振り向いた。ナタリアが大佐にしがみ付いている。前にいたルークが慌てて駆け寄った。
「どうした、ナタリア」
 そこでルークが絶句すると、慌ててナタリアが大佐から離れた。
「なんでもありません。大佐に驚かされただけですわ」
 ごほんと咳ばらいをして、ナタリアが腰に手をあてて文句を言い始めた。
「大佐、冗談もいい加減にしてくださいな。遊びに来ている訳ではありませんことよ」
「あははは。いやぁ、すみませんね。私の魅力が過ぎましたかねぇ」
「いいえ、冗談が過ぎましてよ」
 ナタリアとルークが呆れたような声を上げている前で、大佐が朗らかに笑った。アニスは得意そうな男の顔を見るまいと、前に進んだ。こういうおふざけを誰にでも仕掛ける男なのだ。アニスがやきもきする必要は全くない。
 先でくすくすと笑っているティアとガイの先に、青く光る生き物が見えた。アニスは、背後の男の引力を振り切ろうと、がむしゃらに貴重な蝶を追いかけた。あんな男のことより、目の前にあるこの蝶だ。
「危ない、アニス」
 大佐の鋭い声が聞こえたが、もちろん、アニスは蝶を逃しはしない。闇雲に踏み出された足は宙をかき、カランと崖を石が落ちる音がひとしきり続いた。
「アニス」
 ティアの悲鳴が上がり、ガイの真剣な顔が眼の前にある。アニスは頼りなく揺れる足先に、抜け落ちそうになる草の茎をどうにか掴み直した。ガイの力強い手がアニスの手首を掴むと、思い切り引き上げる。勢い余って、アニスはそのままガイの上を落ちた。はぁはぁと荒い息だけが辺りを圧し、彼女はぼんやりとガイの上に座ったままでいた。
 安堵のあまり、へたりこんでいるアニスはいきなり抱えあげられた。
「何をやっているのですか、アニス。ガイが気絶しますよ」
「へっ、ああ、ごめん。ううん、ありがとう、ガイ」
 周囲に駆け付けた仲間は皆、口ぐちにガイの機転を褒め、アニスの無事を喜んでいる。その脇で、大佐だけが姿勢を正し、ポケットに手を入れて立っている。口元だけを歪ませた笑みは男の中にある怒りを教えるようで、アニスは逃げ出すこともできず、肩を落とした。
「さあ、先に行きますよ」
 大佐の声に、皆、てんでに歩き出した。アニスもそそくさとルークとガイの後を追いかけようとすると、強く手を引かれた。
「アニス、待ちなさい」
 小言をいう機会だけは逃さない。アニスはため息まじりに、大佐の前に立った。だが、大佐はぎゅっとアニスの肩を掴むと、大真面目に問いただした。
「アニス、すみません。怪我はありませんか」
 なんでこの男が謝るのだろう、とアニスが考える。その間にも、男はアニスの手袋をはずし、指先を調べていた。滑る地面の上を爪を立てたからか、指先は血が滲んでいた。
「あなたを動揺させるつもりはなかったのです。ほんのちょっとしたおふざけですよ。ね、あなたを少し刺激したかっただけで、他に他意はありません。二度とこんなに動揺させませんよ」
 どこか、満足感の滲んだ低い声で話しながら、男はアイスの指先を丁寧にハンカチでぬぐった。
「ああ、軽い傷で良かったです」
 動揺なんてしてないのだから。蝶が機敏だっただけで、あなたのせいじゃないんだから。ガイに助けてもらったのだからもう大丈夫。いろいろと言いたい言葉はあった。だが、アニスはそれを一言も口にできなかった。いきなり指先を見つめた男が、ペロリと舐めたからだ。
 単なるお呪いですよ。でも、痛くなくなるでしょう。低い男の声が囁く。動揺させないと言ってたくせに嘘つき。アニスは声ならぬ声で叫びながら、手を握られたまま、立ちつくした。どこまでも危険で、そのくせ心地よい男の声がアニスをがんじがらめにする。
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