拍手小話

PREV | NEXT | INDEX

ひまわり その二

 穏やかな夏の夕べ、真昼の暑さが嘘のように東から涼しい風が吹き寄せる。自艦タルタロスでの雑用を終えたジェイドは、気分転換も兼ねて、村の様子を見回りに出た。夕餉の支度に忙しい家々からは、煙突から細い煙が立ち上り、肉でも焼いているのだろうか、香ばしい匂いが漂ってくる。からからと井戸の水を手繰り寄せる音が彼の郷愁を誘う。
 村はずれの小高い丘の上からは、広大なひまわり畑を見渡すことができる。悠久な大地を覆う見事なまでに影のない様は、ここを訪れるときの楽しみの一つでもあった。緩やかな上りの先に大きな木が目印のようにそびえ立っている。ジェイドは長い木の影をたどり、丘の頂上に近付いた。
 彼のお気に入りの場所には先客があった。ジェイドは完全に登りきる手前で足を止めた。重なりあった枝の影の下に、小さな人影が二つ寄り添っていた。ふわりと風が吹き寄せると、くるりと巻いた髪が持ち上げられ、また、細い肩口へと落ちて行った。脇の緑の髪がそれに答えるようにそよいだ。
 気づいて足を止めた彼の気配に、少年が振り返った。だが、横にいる少女は身動きしない。どうやら寝ているらしい。ジェイドが邪魔をしないようにと、後数歩のところで立ち止まった。導師はそんな彼の心遣いに感謝するかのように、軽く会釈してきた。ジェイドは片手をあげて答え、彼らの正面にあるひまわり畑へと目をやった。彼の背後から吹き寄せる風が再び少女の髪を揺らし、さらに黄金の海を波だてた。
 ジェイドは木陰で幹に寄りかかるように眠っているアニスを眺めた。彼の位置からでも、長い睫がアニスの健康そうな肌へ影を落とし、少し開きかけた小さな口は何も塗っていなにのに、艶やかに赤いことが見てとれた。思い出したように風に遊ばれる髪の先が、唇の美しさを引き立てている。ひまわりで埋め尽くされた背景の前で、その姿はひどく小さく、儚く見えた。ジェイドは無意識に一歩足を前に踏み出し、彼の様子をじっと見ている導師の目線に気付いた。
 ようやく手に入れた休息を邪魔してはならないだろう。真面目に彼を見上げる導師に頭を下げ、ジェイドは来た道を村の中心部へと戻ろうとした。
「ジェイド大佐」
 背後から静かに彼を呼ぶ少年の声がした。
「おや、アニスと一緒に休んでいらっしゃると思っていたのですが」
 ジェイドが答えると、とたんに少年はしーっと人差し指を唇にあてた。
「アニスは夜も緊張して過ごしていますから、もう少し休ませたいのです」
 そういうと、少年は木から少し離れた場所へと歩き出した。ジェイドはいつも静かに行動する導師の背後をゆっくりと追いかけた。
「私に何かおっしゃりたいことがあるのですか」
「ええ、あなたにだけお伝えしようと」
 声が聞こえない程度に離れると、導師はぴたりと立ち止まり、真横にいるジェイドの方をむいた。ジェイドは少年のひどく物静かな笑顔に驚いた。この数日間を共に過ごしたが、これほど訳知った大人の表情を浮かべる姿に出会ったことがなかった。これがダアトの導師の真の姿なのだとジェイドは気付いた。滅多にないことに、ジェイドは目の前の少年に気後れを感じた。
「なにごとですか。イオン様」
 彼の言葉に緊張を感じたのだろうか、導師は、いつも見せる人懐こい笑みを浮かべ、彼の脇に立つと同じ方向を向いた。二人の眼下に見事なひまわり畑が広がり、風でさわさわと揺らめいていた。
「さきほど、アニスとひまわり畑の中を彷徨っていたときのことです。そうしたら、ふと見えたのですよ」
「は……」
「この畑の端に、ちょど、私とあなたが立っている場所に、アニスとあなたが立っていました。こちらを見て、楽しそうに二人で話をしていました。二人ともとても幸せそうでした」
「……」
「不思議ですね。たまに何も読まないでも分かることがあるのです」
「イオン様、どうして私にそんな話をされるのですか」
 導師は、何でも知っている者に特有のとらえどころのない表情を浮かべ、ジェイドの目をしっかりと見つめた。ジェイドは穏やかな緑色の目が放つ光に思わず目を閉じた。
「ジェイド大佐、アニスのことをよろしくお願いいたしますね」
 少年はジェイドに向かってゆっくり丁寧に頭を下げた。
「導師イオン、私の質問に答えていませんよ」
 不思議そうに問い返す彼に、少年はいつものように慈愛に溢れた笑みを零し、くるりと来た方へと戻っていった。そして、幹にもたれかかっているアニスの横に座ると、ジェイドへ再び会釈を返した。
 ジェイドは木漏れ日の落ちる大木の下の少女の寝姿と脇にひっそりと腰を下ろした少年の姿を長い間眺めていた。それは時が止まったのどかな農村の風景にぴたりと嵌りこんでいた。彼には踏み込むことのできない、永遠に続く自然の営みの一部とも思えた。
PREV | NEXT | INDEX
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送