拍手小話

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春宵

 小さな影が森の中を走り抜ける。静まりかえった夜の森に藪のさわさわという葉ずれの音だけがやけに大きく聞こえる。アニスは息を殺し、あたりを窺った。月明かりを頼りに、木々の陰に身を潜め、気配に耳をすます。タルタロスを脱出し、たった一人でセントビナーを目指して数日を過ぎた。不思議なもので、怖くてならなかった暗闇は今では安心の源だ。何の音もしない夜、ダアトの実家の前の廊下でさえ、どきりとした。だが、何もかも吸い込まれたかのような漆黒の沈黙にほっとしている。
 アニスは胸の隠しに入れた親書を上から押さえた。確かにそこにある。もう何度目になるのか分からないが、固い感触がアニスの任務を教えてくれた。これは演習でもなければ、もちろん、夢でもない。彼女の主の行動を阻止するために、ダアトの裏切り者が動き出した。あんなに大掛かりな部隊、いや、それどころか六神将がこぞって襲い掛かってくるとは思わなかった。
 周囲には何の物音もしない。アニスはそろそろと森の端まで進んだ。二日半だから、セントビナーはすぐそこにあるはずだ。木々がまばらになり、月光に街道が白く光って見えた。その先には、月でも星でもない明かりが瞬いている。街道に出たら、素早く行動しなくてはならない。アニスは森の縁に腰を下ろした。
 あのマルクトの軍人は生きているだろうか。街道になおも注意深く目を走らせながら、アニスはこれから先、とるべき行動を頭の中で復唱する。いくつもの「もし」に対して、どれにも答えが与えられていた。


 さすがにその名を世界に轟かしているジェイド・カーティス大佐だ。アンチ・フォンスロットを喰らいながら、ラルゴと互角に戦っていた。ふんぞり返っているお偉いさんかと思ったら、伊達に死霊使い(ネクロマンサー)と呼ばれているわけではなかった。しかも、まるで急襲されることを予想していたかのように、何かことが起きたときの方策をいくつも想定していた。
 導師が万が一にも命を奪われた場合、と大佐が言ったとき、アニスは本気で抗議した。いくら、ダアトの大詠師といえども、導師の命を奪いはしないはずだ。そもそも、あの嫌らしい男から今度の任務で彼女がすべきことを言い渡されたとき、それだけは確認した。しかし、それを大佐に伝えるわけにはいかない。もどかしげに抗議するアニスに、大佐が例の何を考えているのか分からない形だけの笑みを浮かべ、首を振った。
『任務を完遂するためには、全ての場合を想定しなくてはなりません。私はマルクト帝国皇帝から全権を預けられているのです。これは単なる観光旅行でも、ましてや子供のお使いなどではありません。世界の安定と国の思惑がかかっているのです。アニス、どんなことにも絶対はありません』
 表情と裏腹の厳しい声音にアニスははっと身を固くした。彼女の動作に大佐は声を和らげた。
『もちろん、私の面子にかけて、イオン様はお守りしましょう。あなたの導師に害をなすためには、私の屍を越えていかなければならないことは約束します』
 不敵な男の笑みは、ダアト教団の大詠師の言葉よりも遥かに信頼できる気がした。現に、タルタロスに送り込まれたのは六神将ではないか。ラルゴは問答無用で大佐に襲い掛かった。見たこともない音機関が使われた。彼女の知らない何かがダアト内部で起こっている。
 アニスは親書をもう一度押さえた。導師はアニスが伝える大佐の言葉ににこりと微笑み、アニスの手をとった。
『あなたはもとより、ジェイド大佐まで付いてくださるのですから、キムラスカまで必ず行きましょう。どんなことがあっても和平を実現しなければなりません。ですから、アニス、守らなければならないものを間違えてはなりません』
 導師の優しい眼差しとひんやりとした柔らかい手の感触に、アニスは言葉もなく頷いた。

 
 月の冴え冴えとした光に、山桜の花びらがはらはらと落ちてくる。見上げた真白い花がアニスに大佐の声を思い出させた。怜悧でくっきりとした花影が軍人とは思えない整った面立ちにも似ている。アニスは脳裏に響く指示を遂行すべく、人影のない街道を再び見通した。春の宵とは言えども、風はまだ冷たく、彼女の目の前を再び花びらが舞い落ちていく。
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