拍手小話

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せせらぎ

 フープラス川を越えれば、後はカイツールまで一直線だ。アニスの足は軽くなった。追っ手を警戒して、夜の移動を繰り返していたが、これももう後ちょっとでおしまいだ。川のほとりでアニスは腰を下ろすと、靴を脱ぎ捨てた。歩き疲れた足を休めようと水に浸す。トクナガを膝にのせると、アニスは裸足の足で川の水を蹴った。さらさらと流れる川は、さほど増水しておらず、アニスなら容易に超えられそうだった。
 数日の間に、月の出が遅くなってきた。いまだ日暮れには時間がある。今の内に渡ってしまった方がいいだろう。アニスは手にしたトクナガに囁きかけた。
「そろそろ、野宿もうんざりだね。かわいい乙女にはつらい日々だよ」
 彼女はとぼとぼと歩く導師の姿が突然浮かんだ。
「イオン様、大丈夫かなぁ。タルタロスが乗っ取られたのなら、イオン様はそこに閉じ込められているはず。それなら、でこぼこの街道を歩かなくていいはずだよね。それとも、逃げ出しているかな。セントビナーにはオラクル騎士団がいたから、もしかしたら、六神将からうまく逃げられたのかも」
 うん、もう、とアニスは川面を足先で再び蹴った。
「モースの奴、タルタロスの移動をちょっと足止めするだけ、とか連絡してきたくせに、大うそつきじゃない。危うく、かよわいアニスちゃんまでやられるところだった。イオン様まで、何かしようってんじゃないだろうね」
 突然、アニスは不安になった。襲撃が起きるとは知っていたが、あんなに大掛かりだなんて、連絡の一つもなかった。大体、死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドじゃなかったら、ラルゴの大鎌の前にひとたまりもないだろう。イオン様には流血騒ぎを見せたくなかったが、ひょっとして、あの後、戦闘になったりしているんだろうか。
 どきり、と胸騒ぎがし、アニスは岩から飛び降りた。セントビナーまで戻って、導師の無事を確かめないといけない。腰をかがめて、靴を履こうとすると、胸ポケットの中にある親書のがさりという感触がした。暮れ行く空が茜色に染まっている。その濃い赤にアニスはぴたりと足を止めた。


 出来の悪い下級兵を睨みつける切れ長の瞳にすぐ側にあるような気がした。おまけに、あの男の嫌味な語り口が川のせせらぎから聞こえた。
『敵の中で行動し始めたら、与えられた任務以外のことは全て後回しとなります。最優先すべきは任務であり、それ以外のことは任務を遂行する上で必要でないなら、切り捨てなくてはなりません』
 そのとき、アニスは男の説教口調にうんざりしていたから、はいはい、と生返事を繰り返した。とたんに、男の鋭い目が更に細められ、アニスは慌てて居ずまいを正した。
『アニス、いいですか。この親書は大変重要な物です。イオン様と同じ価値があると言っても過言ではありません。これをあなたに預けるのは、タルタロスの中であなたが親書を携えるのに最も相応しくないからです』
 ぷくぅと頬を膨らませるアニスを見て、なぜか、男はふっと笑顔を浮かべた。なんだ、素直に笑うこともあるのだ、と彼女はその表情に一瞬見惚れ、慌てて、首を横にふった。
『どうせ、アニスちゃんはそういう重要な物を持つには相応しくありませんようだ』
 憎まれ口をたたくアニスに、今度は大佐が首を横に振った。
『相応しくないからこそ、持つべきなのです。誰もあなたが一流の兵士だと思いません。この私でさえ、騙されそうになりました。しかし、あなたはその人形と一緒にいれば、間違いなく戦闘要員としてタルタロスの私の部下にも引けをとらない。おまけにダアトの人間です。マルクト帝国皇帝陛下の親書を誰一人、あなたが持っているとは思わないでしょう。ね、あなたにこれを預けます。私が持っているより遥かに安全です』
 その後、大佐は真剣に約束してくれた。イオン様の安全は彼が守る、と。あの大佐に守れないのなら、他の誰もイオン様を守ることはできないだろう。それはアニスも認めるところだ。
 
 くるりと、背後に向き直ると、アニスは岩の上にぴょんと飛び乗った。彼女に与えられた任務はイオン様を守ることだ。そのためには、イオン様が望む和平を進める手助けこそが鍵だ。イオン様の望むとおりに世界が落ち着けば、イオン様に敵対するダアトの勢力は大人しくなるだろう。今のようにイオン様を付け狙うこともなくなるはず。そして、彼女も解放される。
 それこそ、彼女の真の任務に違いない。
『アニス、お願いしますよ』
 イオン様の透明な声が聞こえた。
『アニス、あなたを信頼するからこそです』
 青い手袋が白い親書を差し出した。
 任せてよね、とアニスは虚空に向かって答えると、勢いよく飛び石伝いに川を渡り始めた。春の宵にシロツメ草が揺れ、アニスの足跡を覆い隠していく。
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