拍手小話

PREV | NEXT | INDEX

湿原の花

 不思議な獣が出ると言われる湿原に近づくと、空気までがねっとりするような甘く強い香が漂ってきた。アニスは近づくと、毒々しいまでに濃い橙色の花が水辺にびっしりと咲いていた。
「ほう、これが例の花ですね」
 彼女がじっと観察していると、その上から大佐の声がした。いい加減に人の頭の上から話すのを止めて欲しいと文句を言おうとして、その言葉を呑み込んだ。この男をなめてはいけない。うっかり文句をつけようものなら、これから先、ずっと頭上から声を聞かねばならないだろう。
 しぶしぶと、一歩横にずれて、大佐を見上げた。
「大佐、知ってるんですか」
「ええ、この湿原には出るんですよ」
「出るって、例の誰も見たことのない怪物ですよね」
「おや、アニス。知らなかったのですか」
「へ……」
「この湿原にはとても多くの池塘があります。どうやって出来たかご存知ですか」
「それは、この辺りが昔は湖で、地面が隆起して、高原みたいになって」
「何、教科書を丸暗記したようなことを私に言うのですか。どうやら、ご存知ないようですね」
「う……」
「この小さな池の一つ一つには、昔、この高原で彷徨って命を失った子供達の魂が宿っているんですよ。倒れた子供達が親を求めて流した涙で池ができたんです」
「またまた、大佐」
「冗談ではありません。その昔、貧しい家では子供を育てきれないから、この高原の奥に幼い子供を置いてきた。湿原の中は迷路ですから、子供の足では出てくることができません。でも、そうは言っても大切な子供。一旦は手放しても、もう一度会いたくなる。捨てた子供達を捜して、この地までようやくたどりついたところで力つきた親達の魂が、怪物となってこの地を彷徨っているのです。彼らは、近づく旅人達の魂と引き換えに、失った子供の魂をもう一度手に入れようと、この地のどこかで待っているんですよ」
「え、そんな……」
「ほら、アニス、その後ろに」
 大佐がにやりと笑ってアニスの後ろを指さした瞬間、彼女の後ろに何かの気配を感じた。アニスは思わず悲鳴を上げた。とたんに、うしろでばしゃっと音がして、ルークが池に片足をつっこんでいた。
「おい、アニス。いきなり騒ぐなよ。びっくりするじゃないか」
 慌てて、ルークを引っ張りあげている間に、大佐は楽しそうに鼻歌と共に湿原の入り口を越えようとしている。いつもと変わりなく、ポケットに手を入れて、真っ直ぐに歩む姿に、アニスは舌打ちをした。子供だと思って、あんな話をするなんて。
 アニスが思い切り舌を出してやろうと思った瞬間、大佐がくるりとこちらを振り向いた。
「アニス、そこにある花は、来ない親を待っている内に倒れた子供達の魂で出来ているんですよ。大切に持っていたほうがいいですよ。怪物に出会ったときに効き目があります。子供達の香に怪物は姿を消すらしいですよ。どんな姿になっても親は親なんですね」
 分かったようで、分からないことを言い、大佐はまた先へと進んでいった。
 アニスは唇を噛んで、花を再度見た。濃い橙色の花から出る甘い香は、生きている内に伝えるこのできなかった子供の叫びのような気がした。子供は決して親を恨んでいなかったはず。どうしようもないことは分かっていたのだから、自分が少しでも親の役に立つならと黙ってここまで来たことだろう。そんな自分達にもう一度会いに来ようとする親に、気にするなと、それでも大好きだと、きっと伝えたかったことだろう。
 馬鹿らしい。ただのくだらない伝説だ。どうせ、怪物だっていやしない。こんな花の香は嘘に決まっている。
 そう思いながらも、アニスは水辺に咲くラフレスの花を摘むと、大切に胸へと抱えた。彼女の鼓動にあわせるように、ゆらりと長いおしべが揺れた。
PREV | NEXT | INDEX
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送