拍手小話

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雨:稲光

 しとしとと降る雨は大好き。
 ダアトの丘にも雨は音もなく降り続ける。アニスは濡れた路石に滑らないように注意しながら、ゆっくりと歩いた。差している傘からもぽたりぽたりと雫が落ちる。それは、歩いているアニスの周りを囲むように流れてくる。先に一歩進もうとすると、遮るかのようにぽたりと落ちる雫は彼女を守る壁のようだ。
 神の盾(オラクル)騎士団での初めての野外訓練は雨の中だった。重い雑嚢を背負った新兵は傘なんて差す余裕はない。両手は泥濘で滑った体を支えるために、目に枝が入らないよう避けるために、切り立った崖をよじ登るために空けておかなければならなかった。彼女の体にはまだ大きなポンチョから水が滴り落ち、重たいブーツをさらに湿らせた。体は冷え、苦しいだけだった。とても昔のことのようだ。
 あのときは、雨がこんなにも彼女を匿ってくれるとはわかっていなかった。全ての視界を遮る銀色に煙った雨の中をアニスはことさらにゆっくりと歩く。重い雑嚢の代わりに、心の内に鉛よりずしりとしたものが存在している。この演習は終わることがなく、彼女はその重荷を降ろすことはできない。さあさあと糸を引くように落ちる水の壁が彼女の頬を伝わる温かい雫も溶かしてくれる。


 突然、空が光ったかと思うと、大音響が鳴り響いた。
 アニスは身を委ねていた水の壁の突然の崩壊に驚く。周りを見渡せば、誰の姿も見えなかった。慌てて遮二無二に走り出す。
「前を見て歩かないと危険ですよ。こんなに遅れてどうしたのですか」
 ようやく見えた黒い人影に縋りつくと、例の男の声がした。アニスはぐっと出そうになった悪態を呑みこみ、男から離れようとした。しかし、鍛えられた軍人特有の素早さで彼女は力強い腕の中へ閉じ込められた。
「離してよ」
「こんな好機に、あなたを逃がすなんてことは、私に限ってありえませんよ」
 頭の上から、愉快そうな大佐の声がする。
 そこに被さるように、雷鳴が鳴り響いた。アニスは我を忘れて男の胸に縋りついた。それは気が遠くなるほど長く続いたようで、悲鳴を飲み込み、震えた体をしゃんとさせるには短かかった。彼女の頬を擽る男の長い髪の感触で、優しく彼女の背に触れている男の手の動きで、我に返った。目の前にある自分の手が、青い軍服の襟端を握り締めていることに気づき、弱みを見せてしまったという後悔が、ようやく沸いてきた。
「さあ、もう大丈夫ですよ。私の側にいれば何も怖いことはありません」
 呪文のように、男の声が頭上から聞こえる。
 何でも見通すあの目に捕まるのが恐ろしく、アニスは男の顔を見上げることができない。一番怖いのはあなただよと返すには、アニスはまだ恐怖が去らず、広い胸の中で震えるばかりだった。
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