拍手小話

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桜並木(その三)

 大佐がアニスの様子を間近で観察している。男の吐息がアニスの頬を数回擽り、やがて長々と吐き出された。だんまりを決め込んでも、離れてはくれないようだ。渋々とアニスは目を開いた。彼女の仕草に大佐がふっと苦笑をこぼした。
「まるで鬼が蛇に会ったような反応をしないでください、アニス。隠れた理由を問うのは馬鹿らしいですね。私こそ、こんな美しい場所でアニスと出会えたのに、よりによってあの女が一緒とはついていない。それはともかく、見事な桜並木に立っているあなたのはが花の精のようでした。すぐに姿が見えなくなったから、桜の木に吸い込まれたのかと思い、慌てました」
 彼女に大佐がさらに一歩近づいた。すでに大木の幹に体を寄せているアニスは逃げ場もなく、大きく息を吸いこんだ。
「あの、ごめんなさい。私は大佐が他の女(ひと)といても気にしないから」
「ほぉ」
 一段と男の声が低くなった。せっかく機嫌が戻ったと思ったのに、何が気にいらないのだろう。男の心の中を推し量ろうと大佐の目を覗き込む。赤い瞳がぴたりとアニスの照準を合わせる。アニスは赤い瞳が細められる様に魅入られた。この人はどんな表情をしていても、どうしてこうも整っているのだろう。アニスは言葉も無く、男の顔を見つめた。やれやれ、と大佐が再びため息を零した。
「私はあなたが他の男といたら、大変気にしますよ」
 桜の幹に押しつけられたアニスは、大佐の言葉に頷いた。脊中に感じるざらざらとした木の肌は冷たく、彼女の前にあるとてつもない熱気とは対照的だった。
「あ、ありがとう」
 アニスはようやく言葉を返した。
「恋人としては当然の反応じゃないですか。あなたはそうは思ってくれていないようですが」
「お、思っているけど」
「一応、言い訳をしておきますが、さきほどの女性はさる高貴な方のお言いつけで、私が仕方なく説得していただけなんですよ。あなたの姿を見失ったものだから、つい焦って、怒らせてしまいました。穏やかに退いていただくつもりだったのですがねぇ」
「え……」
 何かいけないことを思いついたときの癖で、男の瞳が強く光った。
「おまけに恥ずかしいお土産までいただいてしまいました。あれもこれも、アニス、あなたが私を見て隠れようとしたせいですよ。それなのに、恋人に向って、他の女と一緒でも気にしないからとは、何を言っているのやら。ここはお仕置きが必要ですね」
「いや、あの、ごめんなさい」
 にやりと不適に笑う男に嫌な予感を覚えたが、がっしりとした男の腕の牢獄からはもう逃げ出せそうもない。困惑で小さく開けられたアニスの唇に、熱く乾いた男の唇が重なる。荒々しくアニスの口内へと侵入する男の舌に彼女もうめくように応えた。
 これが恋なら、とアニスは思う。こんなに苦しくて、痛くて、熱くて、眩い煉獄が恋なら、もう二度とごめんかもしれない。男がかきたてる波に彼女は呑み込まれ、耳元で囁く言葉の濁流に押し流され、息する暇もないほど翻弄される。これが恋なら、とアニスは広い背中に縋りついた。彼女の腕には収まりきらないこの人を、とどめようのない彼女の想いの中に引きずり込んでしまいたい。押えても押えても、彼女の胸から溢れだす不安と背中わせの歓喜の海に共に溺れてしまいたい。決してどこにも行かせないよう、冷たく暗く静かな深海の果てに二人で沈んでしまいたい。
 彼女の声なき祈りが届いたのだろうか。ぴたりと体を寄せ合う二人に音もなく桜の花びらが降り注ぐ。全てを遮る花吹雪の中へ恋人達は吸い込まれる。
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