拍手小話

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桜並木(その二)

 聞きなれた男の靴音が近づいてくる。女性のヒールらしい高い音が軍靴に重なる。共に響く軽やかな靴音が突然止まった。互いに会話する低い声がアニスの耳に届いた。何を語っているのやら、その内容はアニスには聞き取れない。よりによって、アニスが立っている大木の向こう側で二人連れは動こうとしない。アニスは微動だもできず、小さく息を吐き出した。やがて、小さく続けられていた会話もぴたりと止まった。桜の花の間を縫うように蜂が飛ぶ音がやけに大きく聞こえる。
 アニスは唾を飲み込み、さらに身を大木へと寄せた。彼女の小さな胸は静けさの中で、蜂の羽音のように激しく鼓動を打つ。見開いた瞳は陽光の眩しさに涙が湧き、彼女の理性は、直ちにこの場から逃げ出せと囁く。だが、アニスの足は凍りつき、体は意志とは裏腹に動こうとしない。
 パンと空気が破裂したかのように音がした。アニスは声をあげまいと口を両手で押さえるのと、小さな靴音が小刻みに響き、女性が駆けだすのは同時だった。靴音は止まらず、遠ざかる。追いかける軍靴の音を聞くまいとアニスは耳を塞いだ。
 春風が思い出したようにのどかに吹き、再びはらはらと花びらが天から落ちてくる。花吹雪に紛れてしまいたい。幹にぴたりと体を寄せ、アニスは空を見上げた。
「アニース」
 低い男の声が彼女を呼んだ。耳を押さえていても、男の声はアニスに届いた。アニスはいっそ身を固くして縮こまると、木に貼りついた。彼女は目を閉じた。何も聞かなかったし、何も見ていない。かつかつと軍靴の音を七つまで数えたところで、彼女の目の前が暗くなり、よく知っている香が彼女を包んだ。
「わ、私、何も聞いていないから」
 アニスはたどたどしく言い訳をした。だが、返事はなかった。怖々と目を開けると、男の手が彼女の髪に落ちた花びらを摘まみあげていた。
「あの……」
 おずおずとアニスが上を見上げると、見事に頬を赤く腫らした男が彼女をじろりと見下ろした。
「見てないから」
 男の視線の勢いに、アニスは再度弱々しく言い訳をした。
「私に気付いたのに、どうして隠れたのですか」
 落ち着いた声はさらに低いくなり、男の怒りをアニスに教えた。当然ではあるが、大佐を滅多にないほど怒らせてしまったらしい。アニスは数回瞬きをしたが、答えることはできなかった。大佐の横にいる人の影があまりに整っていたから、気遅れしたの。こんなにも美しい場所に、アニス自身がふさわしいとは思えないから逃げたの。大佐の横に女の人がいることが苦しいからなの。なんて、死んでも言えない。アニスは再び目を瞠り、固く唇を噛みしめた。
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