拍手小話

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芳香

 春先の夜風は砂漠の町でも冷たい。国境線の上に立つ酒場から賑わいが聞こえる。人通りの少なくなった目抜き通りを月明りを頼りにアニスはそぞろ歩いている。あの決戦の日も春の月が町の上にくっきりと見えていた。皆、世界の行く末を案じ、息を潜めていた。人気のない酒場のカウンターに一人、あの男だけが全く変わらず、いつものようにグラスの中の氷を揺らしていた。横でアニスはオレンジジュースを啜りながら、男の端正な横顔をこっそり見つめた。彼が漂わすコロンの香を黙って楽しんだ。口では強がりを言ったが、その実、明日から先を想像できなかった。だから、せめても最後ぐらいは心ゆくまで魅かれる人を記憶に焼き付けたかった。
 春の月がかつての出来事を思い出させる。幼い少女が何も知らないからこそ出来た行為は今では懐かしいだけだ。何か胸がざわめいて、アニスはキムラスカ領事館で催されていた宴会から抜け出した。ちらりと見えた人影に会いたくなかったこともある。同時に心の中に記憶が掻きたてられた。あのときの記憶をもう一度確かめたいと唐突に思い付いた。酒場の入口に手をかけると、中からどっと笑い声が聞こえた。ここにあの時のあの人がいるわけがない。しんと静まった酒場は今では存在しない。アニスは扉を開けず、そのまま酒場を後にした。
 その場には似合わない薄物のドレスは風を防いではくれない。体を冷え切る前に会場となっている領事館に戻ろう。しかし、領事館前の港まで来ると、アニスは宴会には戻らず、港の突堤へと向かった。波が静かに打ち寄せる桟橋の先で星が瞬く夜空を身上げる。今なら言えないことも言える気がした。小さく口にしてみた。
「大好きだったよ」


 アニスの脇に突然人影が立った。気配に気づかなかったアニスは脇の人物へと振り返った。アニスの眼前を青い軍服が覆う。
「砂漠の町の夜は冷えますよ」
 不機嫌そうな低い声がした。
 アニスは向きを変えて、男の脇をすり抜け、桟橋から戻ろうと走りだした。とたんに、桟橋の木材の継ぎ目に足を取られ、よろけたアニスは海へ落ちそうになった。はっと息をのむ彼女の二の腕をしっかりと握られた。
「あ、あ、あの痛いんですけど」
 アニスは半分体をのけぞらせたまま、前に立つ男に向って文句を言った。
「でも、離したら海に落ちるんじゃないですか」
 大きな手がゆっくりと彼女を空中から確かな床の上へと引き戻す。しかし、アニスは解放されることはなかった。痣ができるのではないかと思う力で相変わらず腕を握られている。
「えっっっと、アニス、二人きりで会うのは久しぶりですね」
 ジェイドは不機嫌そうにアニスに挨拶をした。
「あの、そうだね。二年ぶりぐらいかな」
「二年と四日」
 男がまたまた強張った声で答えた。アニスはようやく前に立つ男の顔を見上げた。とてつもなく機嫌が悪いのだろう。アニスを探るように見る紅玉の瞳が細められ、唇はまっすぐに引き結ばれたままだ。磨き上げられた剣のように怜悧な男の面をアニスはつくづくと見つめた。言葉を返さないアニスに、ジェイドが唇の端を吊り上げた。
「宴会から抜け出すとは職務怠慢ではないですか」
 嫌味を言う男にアニスはようやく互いの立場を思い出した。
「カーティス将軍、ご無沙汰していたのに、他国の私にまでご注意ありがとうございます。お言葉ですが、今宵は内輪のパーティですし、ダアトはマルクト帝国とキムラスカ王国の仲介役として、他にも多くの詠師が出席しています。それより、将軍こそ、ケセドニアの商人の些細な催しにまで顔を出すなんてお暇になったのですか」
 馬鹿丁寧にアニスが答えると、男はアニスの質問をまるでそよ風のように無視した。
「このところちょくちょくグランコクマに来ているそうですね」
「へ……」
「そのくせ、私に挨拶の一つもしに来ないとは何をしていたのですか」
 男の話の行方が見えず、アニスは押し黙った。何を言いたいのだろう。彼女に何を言わせたいのだろう。無難な話題で逃げるのが一番だろう。
「最近は仕事が立て込んでるし、ご挨拶しなくてごめんなさい。そ、そうだ。遅くなりましたけれど、昨年、カーティス元将軍がお亡くなりになって、あの、お悔やみ申し上げます」
 アニスの言葉に今度は男が首を傾げた。片眉が釣りあげられ、何かおかしいことを聞いたときのように口の端が持ち上げられた。
「は、何を寝ぼけたことを言っているのですか。久し振りに会った私に言うことがそれですか。アニス、交渉相手の動向は正しく探らないといけませんよ。せっかく、丁寧なお悔やみの言葉をいただき生憎ですが、義父は大変元気に生きていますよ。孫の顔を見るまでは死ねないって、呪文のように繰り返すので、私も手を焼いています」 
「はぁ……」
 アニスは黙った。うっかり何かを言えば、ますます男がいきり立ちそうだ。
「ちなみに、昨年、世間様を騒がせたのは義理の叔父の葬式です。勝手に人の親を殺さないでください」
 口を曲げておかしそうに話すジェイドは先ほどの怒りが少し収まっていた。今更、彼女に何のようがあるのだろう。過去の思い出と現在の状況にアニスは混乱して目を逸らした。懐かしい思い出は現実に飛び出してくると、やはり彼女に手には負えない一方的な状況へと展開する。とりあえず、ご機嫌をとらないといけない。
「そ、それじゃぁ、カーティス将軍、おめでとう」
 前に立つ男は訳が分からないというように、アニスを見た。
「祝われるほど、義父が生きていることが嬉しいわけでもないですがね。正直に言えば、そろそろくたばっても何の不思議もない歳ですから」
「そ、そうじゃなくて。結婚、おめでとう」
 アニスは慌てて言い換えた。
「私の結婚……」
 ジェイドが不思議そうに聞き返した。
「じゃあ、婚約ってことになるのかな」
 アニスは慌てて言い直した。婚約、と口の中でつぶやいた男は、それから、何か分かったかのようににこりと笑った。ああ、この人は笑うととてもきれい、とアニスは男の表情を追った。あの晩も整った表情をしていたが、月明りの下の笑顔は魔術師のように彼女を虜にする。繰り返される波の音に男の声が呪文のように重なる。
「ありがとう。アニス、それが返事だと思っていいのですね」
「へ……」
 今までの渋面がかき消え、大佐はアニスの腕を離すと、自分の腕につかまらせた。
「な、何するんですか」
「この朗報を死んでいない義父に教えないといけませんから。今日のバチカル領事館の宴会には義父も遅れて顔を出す予定です」
「は、あれ……、皆さん、ご存じじゃないの」
「え、私に黙って義理の両親に返事したんですか。いくらなんでも、私に最初に言うべきでしょう」
「ちょっと待って」
 アニスは歩き出した男を止めた。あまりに驚いたので、他人行儀に話しかけるべきことも失念した。
「ジェイドは誰と婚約しているの」
 男は愚問とばかりに即答した。
「あなたと、たった今。あ、それから、今の呼びかけはなかなかいいですね。今後は階級名なしとしましょう」
「え、いや、名前でなんて呼べないでしょう。それよりも、あのときのあの人は誰」
 アニスの反応に今度はジェイドが首を傾げた。
「どの人ですか。私とあなたの回りには誰もいませんよ。いくら私と婚約して有頂天になっても、アニス、正気を失ってはいけません」
 ぐるりと周囲に目をやり、男が尋ね返した。正気を失っているのはあなたの方じゃないの、という問いをどうにかアニスは堪えた。その前に彼女の感傷も現在の気持ちも一足飛びに越えて、意味不明な行動をする男を止めなくてはならない。
「じゃなくて、あの、グランコクマの王宮の晩餐会で、ほら、大佐の横にいた」
「あなたに昔の階級名で呼ばれると、それはそれでいい感じです……が、晩餐会で私の横にいた……。カーティスの両親ですか。もちろん、私の婚約相手じゃあないですね」
「ち、違うよ。あの金髪の白いドレスの女の人」
「金髪の女ねぇ。グランコクマには掃いて捨てるほどたくさんいますが、どなたのことですか。ちなみに、金髪の女はネフリーも含めて私の趣味じゃありません。私は黒髪が大好きなんでね」
 大佐が嬉しそうにアニスの巻き毛をつまみあげた。
「ずいぶんと伸びましたね。ますますきれいだ」
 アニスはぽぉと頬を染め、我に返ると慌てて首を振った。
「ジェイド、その人と婚約していたんじゃないの」
「していたってどういうことですか。怪しいタブロイド紙が勝手に人を婚約させたがっていますが、私は一度も婚約なんてしてません」
「じゃ、じゃあ、あのマリアンっていうあの女の人は誰なの」
 ううむと小さく唸り、ジェイドははっと頷いた。
「そう言えば、あのときはマリアン・フリングスにエスコートするように頼まれていました。彼女はカーティスの家の縁戚でして、ご主人が都合悪くて出席できなかったので、代理です」
「随分仲良くしていたじゃない」
「ああ、アニス、その節はあなたがいたというのに失礼いたしました。彼女のご主人はフリングス家のご当主ですから、ご機嫌を損ねるわけにもいかないのですよ。彼女もグランコクマ社交界の華ですからね。無視するわけにもいかなくて。しかし、あなたが心配するような仲ではありませんから、ご容赦ください。大体ですね。あなたこそ、私が事情を釈明する前に他の男と踊り出すし」
「じゃ、じゃあ……」
 アニスはぱくぱくと口を開け閉めしたが、言葉が浮かばなかった。にこにこと笑っていたはずの男が真面目な表情に戻った。
「まさか、あなたは私が誰か他の女と婚約したと思っていたのですか。あなたから返事をもらう前にそんなこと、あるわけがない」
 ぐっとアニスの前に男が屈むものだから、アニスはまたひっくり返りそうになった。のけぞるアニスの前ににこりと笑うジェイドの顔が迫る。
「でも」
 ジェイドが怒っている。笑顔で怒りを表せるとしたら、この人をおいて他にいない。こんなに怒っている姿はヴァン謡将を前にしたエルドランドの最終決戦以来見ていなかったような気がする。アニスの前に小さな白い花が突き出された。
「一体いつまで私を待たせてるのですか。おまけに婚約した、とか、結婚する、とかグランコクマまで噂が流れていましたが、どういうつもりなんですか。まあ、噂だけで本当ではなかったからいいようなものの、私の精神衛生上悪いことこの上無いですよ。私もダアトの罪もない人を殺すことだけは避けたいですからねぇ。自分を抑えることがこれほど大変なことだったと身をもって学びました。もっとも人の女に手を出す輩にはそれ相応の償いはしていただきましたが」
 ジェイドは全く冗談に聞こえない台詞を吐くと、彼の前でのけぞるように棒立ちしているアニスを領事館前の階段に座らせ、自身も彼女の横にどさりと腰を下ろした。久し振りに会ったにしては全く乱暴な扱いだった。抗議しようと顔を上げたアニスの手に小さな野草が押し付けられた。アニスはしょうことなく萎れかけた白い花を手にした。
「あなたの答えを待つと伝えましたが、私を蔑ろにして遊んでいいとは申し上げなかったと思いますよ、アニス」
「え」
 待っていたんだ、とアニスの方が驚いた。確かにあのとき、背後から待っていますよ、とジェイドの声が囁きかけた。だが、アニスは振り向かずに逃げたはずだ。これだけ目の前から逃げ出した相手から返事を貰えなかったら、普通駄目だと思うだろう。だけど、相手はジェイドだ。舐めてはいけなかった。いや、それ相応の償いをさせたって、何をどう勘違いしていたのだろう。この一年と数か月の間、アニスが所属部署をてんてんとした理由がようやく理解できた。彼女の能力不足でもダアト教団が適材適所を考えてくれたわけでもなかったのだ。
「あなたが、あのとき、少し考える時間が欲しい。もう少し待ってくれと言ったから」
 言ったつもりはなかったが、今ここでそれを訴えても通じないだろう。
「ずっと待っていてくれたの」
 普通はすぐに尋ねるものじゃないか、とアニスは心の中でちらりと思った。
「そうですよ。あなたと来たら、ちっともグランコクマには来ないし、私がダアトに行けば、いつも不在だし。今夜もあなたのスケジュールを調べるの難儀しました」
 そうだった。この男はなんだって自分の思い通りに出来るのだもの。まさか、断られるなんて事態は想定もしないのだ。アニスはくすりと笑った。
「何笑っているんですか。こういう宴席に出るなら、きちんと私に報告しなさい」
 男がますます怒り出した。
「いいですか、アニス。私の忍耐力を試そうとするのはいいですが、一年以上も待たせるのは非常識ですよ。大体、昨年末に私から送って招待状はどこにやったのですか。せっかく、あなたと踊ろうと新年のパーティを楽しみにしていたのに、あなたが来ないから、今年も一人で過ごすはめになりました。しつこい女達に囲まれて、うんざりでしたよ。
 その後の春の園遊会だって、思い出のテオルの森で催されるのに、返事の一つも寄越さないし。あの陛下と花の下でサンドイッチを食べるほど、無味乾燥なことはなかったですよ。しかも、サンドイッチはぱさついていた。まあ、サンドイッチはどうでもいいんですがね。とても花がきれいだったんですよ。あなたと一緒に見られたら、もっと良かったのですがね。
 アニス、私はあなたにそんなに難しいことを頼んだつもりはありません。どう考えても、私の妻になるなんて、他のことに比べればひどく簡単なことじゃあないですか」
 一方的に、しかも静かな口調で意味不明なことを男が捲し立てる。大体にして、この人の妻になってくれなんて頼まれた記憶がない。しかも、こんな人の妻になるのは、とてつもなく勇気のいることじゃあないの。いや、それこそ正気の沙汰ではないかも。それなのに、この人の望みどおりでもいいか、とそんな気がしてくるのは、私はもう正気じゃないんだろう。アニスはもう一回くすりと笑うと、男に尋ね返した。
「そんなに待ってくれていたのに、どうして今日なの」
「それは……」
 男は言い淀んだ。少し息を止め、男はふうと息を吐いた。
「この前、グランコクマの王宮の舞踏会であなたの姿が目に入ったとき、この私でも我慢できないことがあると思い知らされたからです。アニスが返事をくれるまでは待とうと思っていたのですが、無理なものは無理でした」
 アニスは勢いよく抱きしめられた。手にした白い花が揺れた。
「ジェイド」
「では、あなたも婚約に同意しましたよね」
 男はアニスの返事も聞かず、彼女を抱き上げると歩き始めた。ドレスの裾が夜風にはためいた。アニスは花を潰さないよう、片手を軍人の首に回した。久し振りに触れた軍服は熱かった。
「そういえば、さっき、大好きだったって、誰のことです。まさか、そいつと婚約を考えていたなんて」
「考えていないこともなかったかな」
 アニスがいたずらっぽく囁くと、きっと男が声を上げた。
「そうですか。もちろん冗談でしょうね。そうでなければ、その男の命はありません。で、誰なんです」
 ふうと深くため息をつき、アニスは答えた。
「ジェイド、自分を殺せないでしょう」
「なんだ。そういうことだったのですか。しかし、アニス、文法は正しく使ってください。過去形は誤りです。さて、義父はどこでしょうかねぇ。あなたが逃げ出さない内に紹介しなくてはなりませんから、大人しくしていて下さいよ」
 ゆさゆさと大股に歩く男の腕に揺られながら、アニスははいはいと大人しく諭された。あのときは過去形だと思っていたが、どうせ、ジェイドには分かりはしないだろう。話し言葉の文法の誤りを指摘するぐらいなら、己の人並みはずれたというか、常識外の忍耐力とか、大いなる勘違いとか、そもそも常識がないということに気づいてくれればいいのに。
 著名な軍人が女の子を抱きかかえて歩く。宴会のホールはざわざわと人の声があがった。通り過ぎる人は皆振り返って二人を眺め、死霊使い(ネクロマンサー)は誰と一緒なの、と口ぐちに言い交わす。アニスは無性に恥ずかしかったが、ここで下せと言って聞く耳を持つ相手ではない。まともな求婚(プロポーズ)の言葉一つも吐かない人なんだと叫びたかったが、言われた本人が一番信じないだろう。
 砂漠の風にシャンデリアが揺れ、アニスの手の中で揺れる白い花が甘い香りを漂わせた。
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