拍手小話

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想い:春夕

 テオルの森は静まっていた。先日来の雨に木々の芽は一斉に吹き出し、森の中は明るい緑色に染まっている。アニスは目指す木に向って、軽くスキップする。下草の生えた道は足に優しく、王宮の毛足の長い絨毯よりも気持ちがよい。春風に黄蝶と白蝶が仲良く舞い上がり、糸につながれたように互いを巡る。
 木に寄りかかるように青い軍服が見えた。早めに来たつもりだったのに、大佐はもう彼女を待っていた。大きく手を振ると、男も軽く手を振り返した。
「お待たせ」
 軽く駆け寄るアニスに男も数歩近づいた。
「無事に伝言が届いたようですね。良かった」
 飛び上がったアニスを男は軽々と抱き上げた。
「わあ」
 思いもかけない男の反応にアニスは男の胸に抱えあげらたまま、ぴたりと動かなくなった。
「な、なんですか、大佐」
「何って、あなたに会えて嬉しいと思っただけですよ」
 そのまま、木の下まで戻ると、大佐はアニスを脇におろした。小高い丘の上のその場所から、森が眼下に見渡せる。
「とても眺めがいいでしょう。ちょうど良い季節なので、ぜひあなたにもこの場所を紹介したかったんです」
 腰を下ろす男の横でアニスはうっとりと景色を堪能した。甘い花の香がどこからか漂い、緑の森のところどころに、白や薄桃色の花をつけた木々がまじり、それは見事な眺めだった。
「大佐、誘ってくれてありがとう。すごく素敵。ほら、あそこを見て。桜の木かなぁ。真白な花が固まっている」
 先を指差すアニスの手を青い手袋をした大きな手が引っ張り、男の横に座るようにと促した。
「そんなにはしゃいで貰えると、午後を休暇にした甲斐がありました」
 アニスはその言葉に驚いた。
「大佐、仕事休んだの」
 軍人は問には答えず、小さな白い花をアニスに差し出した。
「どうぞ」
「え、あの、ありがとう」
 アニスの手の中に半ば押しつけられた数本の野の花は愛らしく、ほんのりと甘い香がした。
「ね、あなたにそっくりでしょう」
 横で囁く男の吐息はさらに甘く、アニスをどぎまぎさせた。語られない言葉が彼女をがんじがらめに縛りつけ、指一本動かせない。呼吸すらままならなず、胸苦しさに深く息を吐き出した。震えるアニスの手の中で、咲いたばかりの真白な花が微かにに揺れる。茎を覆う柔らかな産毛が日の光に銀色に輝いた。
「小さくて可憐だ。だから、いつも側においておきたい」
 花を凝視するアニスの耳に大人の男の声が誘いかける。嫌味でもなければ、命令でもなく、でも子供に対する保護者の言葉でもない。いつもより低く抑えられた声は花の香よりも強くアニスを捕え、雁字搦めにする。予期せぬ誘惑にアニスは戸惑い、わななく彼女の唇はまともに答えを返せない。手に余る感情の渦に怯え、アニスは逃げ出した。彼女を捕らえようとする手を振りきり、立ち上がると勢いよく走りだした。
 大佐の声がなおも彼女を呼ばわる。人魚の歌声のように囁きかける。だから、アニスは振り返らず必死に走った。
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