拍手小話

PREV | NEXT | INDEX

想い:花影

 長くなった日もとっぷりと暮れ、大きな屋敷にあちらこちらに明りが灯される。春の宵にしては珍しい暖かさで、花をめでる宴にはちょうど良い気候だった。茜色の空を背景に、桜のほんのりと薄紅色が濃く紅にも感じるほど強調され、今宵の艶やかな宴をさらに盛り上げている。
 召使が淡いさくら色のカクテルを盆に載せて歩いている。通りすがりにアニスは小さなグラスを一つ受け取った。ケセドニアの大商人の館は、趣向を凝らした庭に異国情緒あふれる回廊が巡らされ、大広間の人混みから逃げ出すにはもってこいだ。かすかな淡さと苦さが調和したカクテルは喉の乾きにもってこいだ。一口含むと、滑らかな喉ごしにアニスは満足した。
 背後ではダアトの詠師達がケセドニアの主だった商人やキムラスカ王国大使館の面々、さらにはマルクト帝国領事館のお偉方と談笑している。随伴員に選ばれたアニスも昨日はキムラスカ王国の参事官と一日協議を行った。ケセドニアの商工会議所の面々とも、その前日にきょうの午前中と散々顔を突き合わせている。これだけ働いたのだから、今宵ぐらいは息抜きをしても許されるだろう。
 あちらこちらから聞こえる笑い声や甲高い会話を聞き流し、アニスは一番星が輝く紺青の空の下へと足を踏み出した。砂漠の町ケセドニアらしく、空はいつもにもまして澄んでいる。夜の帳が降りるにはまだ早いこの時間、空の色はアニスの心の奥底を揺さぶった。とっくのとうに気にならなくなったと思っていたが、マルクト帝国軍の軍服が間近にあれば、ずきりとどこかが痛んだ。せっかく、外へと逃げ出したのだから、空ぐらい別の色になればいいのに。アニスは手にしたカクテルを一気に飲みほした。
 長い回廊を抜け、庭へと彷徨い出た。以前は何もなかったであろう砂地は、不断の努力による丹念な手入れで見事な緑の庭園と変化している。水の貴重なこの地にあって、そこかしこから吹き出す仕掛け噴水はこの館の主の財力と権力を象徴している。小さな水の筋がアニスの前で交差し、登り来る月の光に煌めく。淡い月の光を反射して出来上がった水のアーチの先に白い大理石に階段が続いていた。どこか別世界への入口のようで、アニスは吸い寄せられるように水の筋が作るアーチをくぐり、階段をゆっくりと登った。
 どこまで続くかと思った階段はとうとつに終わりを迎え、薄い桃色の大理石でつくられた小さな東屋があった。丸天井の内側は宵闇ではっきりとはしないが、様々な色のモザイクで草花が描かれているようだ。八本の細い飾り柱が丸天井を支え、腰の高さにぐるりと手すりが作られている。柱の間を風が吹き抜け、町にすぐ側まで来ている砂漠が一望のもとに眺められた。夕闇に、春の花が咲き誇る緑の庭が美しく、背後に波打つ砂漠がモノクロの海のようにも感じられる。



 東屋のベンチに腰を下ろし、アニスは雄大な景色と艶やかな庭の眺めを堪能した。宴のざわめきも東屋では遠く別世界のように聞こえる。アニスはひんやりとしたベンチの背もたれに寄りかかった。ふいに数年前のテオルの森の光景を思い出した。あのときは、青い軍服に身を包んだ男がすぐ横にいた。あれほど美しい春の花の景色にあの春以来出会ったことがない。ひどく無機質な男だったのに、それでも彼がいたから輝いていたのだろうか。金属のように冷たく研ぎ澄まされ、そのくせ強い磁気で人を引き寄せる人だった。
 久し振りにマルクト帝国軍の軍人達を目にしたからだろう。宴の広間のあちこちに立つ青い軍服の影が春の宵を飾りたて、過去の呼び声が蘇る。一気に飲んだカクテルのせいで火照る頬を抑え、遠く去った春の思い出を静かに味わうために、アニスは乾いた風に身を任せた。
PREV | NEXT | INDEX
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送