拍手小話

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想い:古草

 先週まで枯草色だった丘は見違えるほど明るい緑に覆われていた。うねりながら緩やかに下っていく丘の真ん中に白い石を敷き詰められた小道が美しい曲線を作る。まだ冷たい風が若すぎる芽をからかうように丘を越えていく。頂上とも言えない丘の上でジェイドもまた風を体に受けた。急いで登り切ったせいで火照った体に初春の風は心地よかった。眼鏡をはずし、目を閉じ、長い髪を風が弄ぶままに立つ。青い軍服の長い後襟がぱさりと揺れた。
 ぐっと腕を伸ばし、ジェイドは目を見開いた。草萌えの中から小鳥が飛び立ったが、人の気配はなかった。ジェイドはぐるりと周囲を眺める。約束をした人の姿を探す自分に苦笑いをした。もう待っていることも、待たせることもなくなった。
 丘の先をたどれば、芽ぶき始めた木々の枝の間に青い海が見え隠れしている。ジェイドは目を細め、空の果てと海が合わさる先を見つめた。視力の良い彼の目はゆらゆらと海面を掠める海鳥や空高く舞い上がっているトビを追う。その合間を波に揺られる船がグランコクマに入ろうとしている。この場所からは、見える船の形の仔細まではうかがい知れないが、時間帯といい、大きさといい、キムラスカ王国とマルクト帝国を周遊する観光客船に間違いない。つまり、あの船には待ち人は乗っていない。そんな風に待ち遠しく海を眺めていたときはすでに過ぎ去った。だが、ジェイドは光に輝き、様々に変化する海をぼんやりと見つめた。
 見あきない景色ではあったが、また、繰り返し見ている風景でもある。ジェイドはゆっくりと眼鏡をかけ直すと、さらに奥へと歩を進めた。せっかくの陽気に一人とはいえ、散策をしないのももったいないだろう。ゆとりのある時間は貴重だ。ましてや、一人きりで過ごすときは滅多にない。一挙手一投足まで許可を求めようとする部下も、自分で決めているくせに意見を聞く振りをする上司もいないではないか。
 彼が足を進めると足元の小石が小さく鳴った。まるで、彼の傍に歩く人が在るような錯覚を覚える。ジェイドは足を止め、もう一回だけぐるりと周囲を確かめた。もちろん、さわさわと続く風の囁きに答えを返すのは木々の梢で囀る鳥だけだった。この場にいるのは彼と彼の影だけだった。軽く吐息を落とし、ジェイドはじゃりの小道を再びたどり始めた。
 この辺りまで来れば、森も深くなり、訪れる人も稀になる。小道のところどころから草が顔を出し、どこか道なのか判然としなくなる。うっかり何も考えずに進めば、いつの間にか、道を失っている。まるで今の自分のようだ、とジェイドは苦笑した。そこにあると何の疑いももたなかった。まっすぐに進めばよいと思っていた。先に歩いていた彼は振り向いたら、たった一人になっていた。


 
 開けた丘の南斜面にジェイドは横たわった。昼過ぎたばかりで、さんさんと降り注ぐ日差しは初春とは思えない暖かさだ。冷たい風もいつの間にか止んでいた。乾いた土の匂いに新芽の淡い緑の香が混じり合い、彼の周囲に漂う。小さな小さな白い花が顔のすぐ横で揺れている。ジェイドは一本だけ摘むと目の前にかざした。彼にとってはごく当たり前で簡単なこともまだまだ若い彼女には大きな壁があったのだろう。少女の目に浮かんだ怯えと戸惑いが、白い花に重なった。
 普段では気付かないちょっとした自然の変化。少しでもゆったりした時間さえあれば、失わなかったのだろうか。後一息、足を止め待っていれば、逃げられずにいられたのだろうか。答えのない問いが胸の中で木霊す。
 さわさわと丘を昇る風にのり、街中の礼拝所の鐘の音が届く。どうやら、時間のようだ。ジェイドは目を閉じ、祈りを捧げた。大切なあの人がこの日差しのように穏やかで、淡い芽ぶきのように勢いよく、やがて豊かな実りのときが迎えられるますように。彼の横にはいない大事な人の面影が浮かび上がり、海から吹き寄せる風に巻き上げられ、青い空の上へと吸い込まれた。
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