拍手小話

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自由落下

 アブソーブゲートの崩落は突然で、とても長い落下だった。アニスは底なしの暗闇へと吸い込まれるのなら、なるべく速く終わって欲しいものだと、目を固く瞑った。とたんに、横からあの男の声が聞こえた。最後に耳に入る声が中年男の例によって嫌味な言葉であることが腹だたしく、そのくせ、どこかほっとした。だが、ほっとしたのもつかの間、男のセリフを唸る風の中で理解した瞬間、いつも以上に怒りがこみ上げてきた。
「アニス、どこで訓練を受けたのですか。しっかり、下を見て態勢を立て直しなさい」
 これでお終いと思うときに、こんな説教を聞かされるとは、いくら彼女でも我慢がならない。ぱちりと目を開くと、落下中の大佐がにやりと笑って、彼女に手を伸ばした。
「いいですか。この真下に床があります。たたきつけられたくなかったら、私にしがみ付いていなさい」
 アニスはこれからなすべきことを思い出して、目の前の男に蹴りをいれるのを止め、慌てて男に抱きつくために姿勢を変えた。アニスが腕を差し伸べると、すぐに彼女の腰に男の長い腕が回り、彼女の頭上で男が詠唱を口ずさむのが聞こえた。下からどうっと強い風が吹き上げたかと思うと、二人は半透明な床へそれなりの勢いで着地した。
 最後の瞬間、ぎゅっと目つぶっていたアニスは二人の周囲を覆う静けさにほっと息を吐いた。硬直していた彼女の脇を腕が優しく撫で、アニスはそのまま彼女を支える温かい胸の中で動かなかった。どうやら、助かったらしいとぼんやり考えた。
「アニース、大丈夫ですか」
 さわさわと彼女の太ももを撫でる感触に、アニスはがばっと目を見開いた。真下に大佐の顔を見え、彼女は男の上に乗っていたことにようやく気づいた。アニスは無遠慮に動く男の手を凝視し、それから自分の置かれた事態を理解した。よりによって、この男の真上に乗ってしまったとは、何という危険なことをしたものだ。
「え、わっ、あの……何、してるんですか」
 よく見ると目の前の男の顔が歪んでいる。
「えっと、あの、まずいっていうか。大佐、大丈夫。どこか怪我したの」
 確か笑っていたような気がしたが、違っていたみたいだ。男を気遣っておたおたと立ち上がろうとする彼女の手を大佐が引っ張った。
「あなたが予想外に重かったものですから、腰を痛めてしまったみたいです。ちょっと起き上がれそうもありません。アニス、治療していただけませんか」
「大佐、どれぐらい痛いの。でも、私、治療できないし。ああ、どうしよう」
 立ち上がろうとする彼女の手を大佐が離さないので、アニスはまた男の上に腰をおろすはめになった。
「とりあえず、このグミを……。いたたた」
 大佐が彼女の目の前に手を突き出した。その手にはどこからともなく現れたアップルグミがあった。
「え、これ、どうするの」
「まず、あなたの口に入れてください」
 アニスは動転のあまり、言われたとおりにアップルグミを口に放り込んだ。
「次に体をこちらに寄せて」
 大佐に引っ張られ、アニスの目の前に、怪我をしている割にはにこにことしている大佐の顔が現れた。
「私の唇にキスしてください」
 彼女の後頭部に大きな手が回され、アニスの唇は熱い男の唇に触れた。
「……っ、な、なにするんですか」
 アニスはとてつもなく長い数秒を経過した後に、どうにか身を振りほどいた。腰を痛めているというには、中年男の腕力は相変わらずの力強さだった。
「大佐、いったい何を……」
 今度こそ、危険な男の体の上から逃げ出したアニスは絶句した。もちろん、アニスの反応など全く気にしない大佐も元気よく立ちあがった。アップルグミが効いたというよりは、最初から腰を痛めていないと言う方が真実に違いないとアニスは断定した。まったくこの男ときたら、どんな危機でもロクでもないことしか思いつかない。
「だって、あなたの命を救った上に腰をいためたんですよ。年寄りの私にはご褒美が必要です。さて、あなたのおかげで元気がでましたので、皆と合流する方法でも探りましょうか」
 そこでわざとらしく男がよろけて、アニスに縋りついた。
「ああ、眩暈がします。もう少しご褒美をいただかないと、譜術の発動がまだ駄目かもしれません」
 アニスの耳に悪魔よりもたちの悪い男の朗らかな声が響いた。モンスターより危険なものが、彼女の側に立っているのだ。アニスは慌てて一歩下がった。大佐がこれまたどこに隠し持っていたのか、別のグミを取り出した。
「今度はミックスグミをお願いします」
「大佐、助けてなんて頼んでないから」
 アニスは呆れたように肩をすくめると、ぐるりと後ろを向いて歩きだした。
「アニース、周囲の様子も調べないうちに移動するのは危険ですよ。ちょっと、待ってください。何を怒っているのですか」
 大佐がかつかつと軍靴を響かせて、彼女を追ってくる。ガイとかティアとか、いや、この際、ナタリアでもルークでもよかったのに。どうして、日頃からがんばっているアニスちゃんが、よりによって、この男と一緒に落下したのだろう、とアニスは頭を抱えた。この状況から逃れるためにも、全力で仲間のいる場所へ向かわなくてはならない。
 アニスは怒りに燃えて、前にいるモンスターを勢いよく倒した。背後で、まだ腰がつらいですと泣きごとを言いながら、男が槍で二匹のモンスターをまとめて串刺しにしていた。
「譜術がすぐに出てきませんよ。アニス、もう一回だけ治療してください」
 意味不明な泣き言が聞こえたが、当然アニスは無視した。助けられたからって、そうそう甘やかしてはならない。大佐ときたら、人の弱みにつけこむのだけは得意なのだ。しかし、ご褒美をちらつかせれば、しばらくは役立ちそうだ。なんとかと鋏は使いようなのだから、せいぜい、この男を奮闘させて、仲間と合流しなくてはならない。
 決然と前を進む彼女に、背後から、アニース、と彼女の名前を呼ぶ男の甘く低い声がした。
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