聖夜のお話

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星芒

 青白く瞬く星は冬の夜空に見事に散りばめられ、身を切るような冷たい風もその輝きを消すことはできない。降り続けていた雪はいつの間にか止み、細い三日月が木々の先に顔を覗かせている。青くも見える雪の上に、木の陰はくっきりと映り、何の物音もしない。
 一人暮らしになってから、何度目の聖夜だろうか。
 ずいぶんとときは過ぎたものだ。互いに身を寄せ合い、寒さを凌ぐものと言えば古ぼけた毛布一つきりの生活。今を我慢すればきっと楽になると、幼い弟に言い聞かせていたのが夢のようだ。聖夜に流れる星に願いを唱えれば、それは必ず叶うのよと囁くと、弟は割れた窓の先の夜空を食い入るように見上げていた。
「また、家族で一緒に暮らせますように」
 小さな小さな声でそう唱えてぽつりと涙をこぼす姿に、もらい泣きしないようにと歯を食いしばった。心の中で同じことを願っても、声に出すことはなかった。そんな弱い姿を弟に見せられなかった。
 今なら、誰も聞いていないのだから、いくらでも思ったことが言える。だが、いざそうなると、何を唱えてよいのかわからなかった。彼女の願いはあのときから叶わないことばかりだ。結局、凍てついた夜空の下、以前と同じく、心の中で願いを思い浮かべ、黙って星を見上げるだけ。


「姉さん」
 背後から随分と低い声が彼女に呼びかけてきた。すっかり冷え切った体はその声にすぐ反応できなかった。
「なかなか来ないので、迎えに来たよ。一体どうしたの。灯を落としたままにしているから、寝込んでいるのかと思った」
 成長した弟の声がすぐ耳元で聞こえる。リフィルはのろのろと振り返り、どうにか笑顔を作ろうと努力した。いつの間に見上げるようになったのだろう。
「あら、ごめんなさい。夜空がきれいだったから、つい見とれていたのよ。私としたことが、だいぶ遅れてしまったわね」
 リフィルは冷え切った唇を少しゆがめて、笑おうとした。ジーニアスはあきらかに無理をして表情を作るリフィルの姿に無言で側により、その肩を守るように腕を回した。
「姉さん、こんなに冷たくなるまで、どうして外にいたの。今夜はとびきり寒いっていうのに、駄目じゃないか」
 リフィルは弟の文句は耳に入らないかったかのように、たくましくなった腕から抜け出し、急いで部屋へと入った。
「聖夜らしい日になったわね。午前中は雪が降っていたから、星が見えるかどうか、ちょっと心配していただけ。子供達がお願いをするの、楽しみにしているでしょう」
 灯が落とされた部屋には、ちょろりと暖炉の火が燃えているだけだった。薄暗がりに伸びる姉の弱々しい影にジーニアスは胸をつかれた。
「姉さん、どこか具合でも悪いの」
「ちょっと風邪気味だけど、心配することはなくてよ」
 リフィルは部屋に灯をつけながら、答えた。ジーニアスは、何の飾り付けもしていない殺風景な部屋を眺め渡し、さらに口を開きかけ、軽く首を振って思いとどまった。リフィルも自分の部屋をぐるりと見渡し、ジーニアスに指摘される前にと言い訳をした。
「あの……。聖夜の飾りつけをするつもりでいたのだけれど、ほら、もう年末だし、学校の準備やらで忙しいでしょう。だから、なかなか、家の中までは手が回らないのよ」
 弟はいかにも物分りよさそうに彼女の言葉にうなずいたが、その表情は、言い訳に納得していなかった。リフィルはそんな弟の態度に気づかないふりをして、部屋の椅子にかけてあったコートを手早くはおる。
「ごめんなさい。あなたに迎えに来てもらったからには、すぐに行かなくてはね。ロイドやコレット、プレセアも、もう待ちくたびれていることでしょうね。おちびちゃん達もお腹をすかせて、待ち遠しいはずだわ。それに、プレセアとコレットのせっかくの手料理が冷えては、申し訳ないし……」
 これだけはと、すでに用意してある明朝の贈り物の袋を手に取り、まだ、なにやら言いたそうにこちらを見つめる弟の背を押して、リフィルは外へと出た。


 例年だと聖夜は必ず彼女の家で過ごす弟夫婦が今年に限って、約束があるらしく、玄関先まで送ってくれただけで、急いでロイド達の家へ戻っていってしまった。
「ただいま」
 いつもの習慣で家に入ろうとして声をかける。もちろん、何の返事もない。
 ジーニアスが巣立っていったのは、随分と前だ。一人暮らしをするようになって、何年立っただろうか。弟が家を出て行くと言ったときは、これで自分だけの時間を心ゆくまで楽しめると思ったものだ。だが、一人きりの家はがらんと広く、寒々しいとすぐに思い知った。
 皆、見守っていた者達は立派に育った。
 ロイドとコレットはエクスフィアの回収にと世界を駆け巡っている間に互いの気持ちを確認したのだろう。一昨年、イセリアの聖堂で結婚式を挙げた。式に家族として参列して欲しいとロイドに請われて、二人の背後にダイクと共に立っていたときは、柄にもなく涙がこぼれた。その後は、ロイドは周りに請われても応じず、イセリアのコレットの家でひっそりと暮らしている。養父から習い覚えた技で彼が生み出す細工物は近在でも人気だ。
 ジーニアスは遠くパルマコスタの学問所を首席で卒業し、ゼロスの強い要請で王立研究所に勤めている。彼女の肩までしかなかった少年は、今や見上げるだけすらりと背も伸び、彼女の保護を必要としていない。
 リフィルの知らぬ間に、弟は旅を共にしていた少女の心を掴み、新しい家族を作ることになった。メルトキオの大聖堂での結婚式はそれは盛大なものだった。ゼロス、しいなやリーガルはもちろん、テセアラの重鎮が顔を揃えたそれは、彼女にとって晴れがましいものであると同時に、弟が彼女の手を必要としない世界へと羽ばたいていったことを嫌でも教えてくれた。
 弟が彼女のことを大切に思ってくれていることは、プレセアが家族と同様に、いや、それ以上に彼女を慕ってくれていることはわかっている。昨年生まれた幼い姪は大切に育てられ、いまだ偏見や困難もあるが、おそらく自分達のような苦労は送らないだろう。
 今日も、ロイドとコレットの家で、小さな子供達がそれは仲良く賑やかに遊んでいた。後数年もすれば、この子達が彼女の学校へと上がってくるはずだ。ジーニアスが姉さんにそっくりだという姪は、プレセアの腕の中でうつらうつらしている。姪のくせのない銀色の髪が灯に輝き、それを見つめるジーニアスの姿にリフィルは記憶の片隅へと仕舞われていた父の影をみた。
 この手に助けを求めていた者達は、今や別の幼き者達へ手を差し伸べるまでになったことに安堵と寂しさが胸に溢れた。何かをなしとげた後の虚しさからか、星空の先に求めていたあの面影への寂しさからか、リフィルは祝いの席の酒が過ぎたことに気づいた。すっかり冷え切った体はアルコールの力で胃のあたりだけが燃えるように熱かった。
 彼女が必要とされるときは、今ではほんの少しだけだ。夜も更け、さあと立ち上がる彼女を引き止める者はいなかった。ロイドとコレットも他に用事でもあるのだろうか。あからさまにとは言わないが、彼女が立ち上がると、そそくさと送り出した。ジーニアスは彼女に晩の挨拶をしたかと思うとあっさり帰ってしまった。弟には自身の家族があり、聖夜に彼女と二人で震えて過ごしたことなんて忘れて去ってしまったのだろう。
 世界は変わった。彼女が見守ってきた者たちも変わった。
 思いがけずも、この全ての変化のきっかけとなった旅に最初から、彼女は加わっていた。長くて、短く、つらくて、それでも楽しかったあの旅。 皆が何かを知ることができた。彼女も失ったと思っていた母の手に触れることができた。己が壊れてしまっても失われていない、彼女への母の愛を知ることができた。遠く離れても、二度と会えなくても、確かに存在するものはあった。
 だから、私は大丈夫。慈しんだ者が離れていっても、秘かに愛を捧げた人が遥か手のとどかないところにいても。一度在ると知ったものは、たとえ目に入らなくても、消えることはないのだもの。
 灯もつけず、炉の火も起こさず、リフィルは簡素な寝台の上にぱたりと横になった。中途半端にほってった体に部屋の冷たさが心地良かった。夕刻からだるかった体は確かに静寂に守られた休みを欲していた。しんと冷えた家の中、今傍らにあるのは、沈黙を守る家具だけだ。
 ふいに涙が一粒こぼれた。
 本当は淋しい。皆、変わっていくのに、彼女の時間だけは止められたままだ。それは、あなたがいないから。勝手に、頼みを私に押し付けて、そのまま去っていってしまったから。


 あの晩、男はリフィルの前に突然現れた。
 まさか、前夜に彼女の家を訪れるとは思ってもみなかった。とまどうリフィルの顔を見て、なぜか、彼も少し困ったような顔をして横を向いた。彼が明日旅立つことを知っていたから、彼が言いそうなことは見当がついた。部屋の振り子時計の針がかたりと音をたてた。隣の部屋で寝ているジーニアスが起きる気配はない。
 リフィルがどうにか気を取り直して、口を開こうとすると、音もなく男がすぐ目の前に近寄った。とても大きく力強いのに、身のこなしはいつでも軽く素早かった。夜霧の松林の湿った香と彼が愛用する柑橘の爽やかな香が入り混じって、彼女を取り巻いた。リフィルは身動きできずに立ち尽くす。
 がたりと薪が落ちる音にリフィルは驚いて一歩下がった。とたんに、クラトスが彼女を逃がすまいとするかのように、強く彼女の肩を掴んだ。
 まあ、こんなに力が強かったのね。
 リフィルがそんなことをぼんやりと思い浮かべると、男はひどく乱暴に彼女を自らの方へ引き寄せ、いつにもまして強い口調で言った。
「リフィル、ロイドのことでは、いや、私自身もずいぶんとお前の世話になった。感謝している。もっと早くに言わなくてはならなかったのだが、ありがとう。聞いて知っていると思うが、私はこれからこの星を離れなくてはならない。私がいない間、ロイドのことを家族と思って面倒を見てやってくれないだろうか」
 驚いて答えも返せないリフィルの顔を男がじっと覗き込んだ。ロイドより赤味の強い琥珀の瞳が暖炉の火を受けて、さらに輝いている。互いの息を感じるほど間近にせまった男の表情に胸がどきりと高鳴る。リフィルは思い知らされた。私はこの人の頼みを断ることはできない。それどころか、前夜に会いにきてくれたことを喜んでいる。
 何か言わなくてはいけないわ。でも、何を言えばいいの。
 大丈夫よ。今までと同じで簡単なことよ。任せて。
 違う。今夜、私もあなたのことを考えていた。最後にもう一度会いたいと思っていたのよ。
 そうじゃない。私を忘れないで。私もあなたのことを忘れない。
 いえ、行かないで。私はあなたのことを……。
 混乱したリフィルの表情を男が静かに見守る。どうにか、リフィルが息を整えたそのとき、男はいかにも剣士らしい節くれだった大きな手でリフィルの頬をなぞった。剣を握るその手は石のように硬いはずなのに、触れるそれは水鳥の羽のようにふわりとしていた。
「頼んだぞ」
 男は、何も言葉を返せずにいるリフィルの唇に優しく静かな口付けを与えてくれた。我に返ったリフィルが引き止める間もなく、来たときと同じく、男は音も立てずに素早く部屋を出て行った。
 家の扉がそれはゆっくりと閉じられた。


 男を引き止めることはできなかった。命をかけた戦いを共に過ごし、自分が負うた責任を投げ出す人ではないとわかっていた。彼の過去を知れば、旅を共するうちに生じた心に秘めた想いを告げることはありえなかった。だから、目の前から彼が姿を消せば、自分の心はざわめくことはなくなるのだから、これからはとても楽に過ごせるはずだと己に言い聞かせた。もっと、恋しくなるなんて、想像もしなかった。
 彼の表情が今も目の前にあるように思い浮かぶ。扉を開けたときの、少し困惑したような、でもとても真剣な表情。写真の一枚も、絵姿の一枚も持っていないのだから、彼は彼女の記憶の中にしかない。落ち着いた低い声は、彼女の耳の中に木霊しているだけだ。
 しかし、一つ一つが時を経た今もいっそう鮮明に思い出される。
 あれが最初で最後の口付けだった。彼から与えてくれるとは思いもしなかった。驚いて声も出せないリフィルの姿に、申し訳なさそうに目を伏せ、部屋を出て行った彼の後姿が目に焼きついたままだ。
 ずるい。私に何も言わせず、勝手に自分の願いだけを押し付け、しかも、彼女の心を奪ったまま、返してもくれない。もちろん、口に出して言わなかったのだから、分かるはずもないだろう。しかし、彼女のときはあのときから、一秒たりとも進まないままだ。
 窓越しに見える星影に願いを囁く。会いたい。あなたに会いたい。
 せめて、聖夜のこの一瞬で良いから、顔を見たい。あのとき、言えなかった一言を言いたい。そうすれば、遠くにあるあなただって、私の寂しさを少しくらいは思いやってくれたかもしれない。たまには、思い出してくれたかもしれない。
 もちろん、頼まれたことは果たした。ときは過ぎた。誰も私の手を必要としていない。一人、あなたに囚われている私はどうすればいいの。


 クラトス。
 

「リフィル」
 耳元で呼ぶ声がする。 ああ、夢の中でいいから、あなたに名前を呼ばれたい。今日は聖夜だから、願いが叶ったのだろうか。それなら、夢から覚めてはいけない。目を閉じたままの彼女に、忘れたことのない低く落ち着いた声がかけられる。
「リフィル、こんなに寒い部屋で何も掛けずにベッドの上でうたたねをするな。熱がでているぞ」
 優しい手が彼女を抱える。そう、このまま、私をずっと抱えていてちょうだい。とても、寒かったのよ。


 ゆっくりと覚醒する。炉には勢い良く火が起こり、部屋は暖かくなっていた。凍てついていたはずの体も床の中で心地よく温まっている。少々飲みすぎせいなのか、体がだるくて、なんだか苦しくて、帰ってきたときには、灯もつけたつもりはなかったけど。
 リフィルはがばっと起き上がった。
 人の気配がする。
 目の前に、後ろの灯を受けた大きな黒い影が見えた。とたんに彼女の目は霞がかかり、影はにじみ始める。
「リフィル」
 その影は、彼女が聞きたくてたまらなかった声を発した。
「クラトス、……」
 名前を呼べば消えてしまうような気がして、慌てて手を伸ばした。大きく温かな手が彼女の手を包み込んだ。現実のようにしっかりと固くごつごつとした手の感触。
「リフィル、目が覚めたか。無理をするな。熱を出しているのだから、急に起きるな」
「熱、でも、夢の中でも熱が出るのかしら」
「リフィル、しっかりしろ」
「ほら、まだ熱が下がっていない」
 男の手はリフィルの額に当てられ、そのまま、彼女は床へと横たえられた。額にのる男の手は羽のように優しく、以前と同じ感触だった。
「クラトス、……」
「リフィル、どうした。泣かないでくれ」
「だって、……。あなたは何故ここにいるの」
「お前に呼ばれたから。さきほど、私の名前を呼んだだろう」
「私が……」
「すまない。遅くなってしまったな。これでも、急いでもどってきたつもりだったが、お前には無理をさせてしまった」
「私、私、……」
「ずっと、待っていてくれたのか」
「……」
「リフィル」
 クラトスは困ったような顔をしてリフィルが寝ている脇に腰を下ろした。彼の重さにベッドはぎしりと音を立てた。ああ、まるで夢ではないみたい。ここに彼が来てくれたようだ。消えてしまう前に、目が覚める前に言いたいことを告げなくては。伝えられずに後悔するのは、それが夢の中でも、もう嫌だ。
「あなたは意地悪だわ。勝手に頼みごとだけして、私の返事も聞かないで。何も約束をくれないで。人の気持ちを何だと思っているの。ずっと会いたかった。とても寂しかった」
「お前にそう思わせたのは、すまなかった。だが、戻ってきた。私もお前に会いたかった。許してくれ……」
 間近にクラトスの顔がせまり、会いたくてたまらなかった人の香にリフィルは目を閉じた。クラトスは私に答えてくれた。
 何て素晴らしい夢。


 朝日が射し込んで眩しい。うっかりカーテンの引かずに寝てしまったらしい。昨日降り積もった雪ですっかり明るい外の雰囲気に、リフィルははっきりと目を覚まし、ベッドの上で体を起こした。どうやら、聖なる日は見事に晴れたようだ。
 昨晩はジーニアスとロイドに結構な量の酒を付き合わされてしまった。そのせいか、ロイドの家から戻り、ジーニアスに別れを告げてからの記憶があいまいだ。外と同じだけ冷え切っていると思っていた部屋は暖まっており、ガラス窓を通して落ちる陽射しが、敷物上に柔らかく陰影を落とす。繊細なくもの巣のように霜がガラス窓に張り付いているのを見て、外がひどく冷えていることに気づく。
 とても、よい夢を見た。
 昨晩のだるさはどこにもなく、体はとても軽かった。聖なる日は朝から聖堂で礼拝が行われる。お天気も良いから、村人はこぞって出向くに違いない。朝の祈りの後は、ささやかな村のお祝いとなる。彼女も手伝いにいかなければ、皆、心配するだろう。
 寝床の上に広げている肩掛けをはおり、水を飲もうと寝台の外へと足を踏み出した。何かの違和感に、彼女の足は止まった。昨晩、椅子を動かしただろうか。ベッド脇にまるでさきほどまで誰かが座っていたかのように、椅子が引き寄せられていた。
 夢なら覚めないで。
 自らが口にした言葉を思い出す。あれは、夢ではなかったの。待ちわびていた人の訪れは聖夜が与えてくれたひと時の贈り物のはず。だが、鼓動は収まらず、足は床に根が生えたように動かない。


 扉があのときと同じように静かに開く。







   晴雪(蛇足なお話)
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