転回

PREV | NEXT | INDEX

川霧

 白く低く垂れ込めた霧がゆっくりと広がる。
 凛とした冬の朝、冷え切った大地より温かい川面に生じる霧はそのまま風に従い、岸へと運ばれる。そこだけ凍っていない川の中ほどは、霧の流れると同じ速さで水が流れている。
 クラトスは、その景色を眺めるともなく目に入れ、その川の向こうの動きを待つ。
 この寒さに冬鳥もその身を互いに寄せ合い、岸辺にわずかに残る枯れ草の向こうの氷の上に三々五々と、その日最初の陽が上るにつれ、黒い影を落とす。朝日はまだあがり切っていないため、その影は長く伸びている。彼が佇む大木の影は、彼をも飲み込み、川へと堂々と落ちている。あちらからは逆光になるから、ほぼ見えないはずではあるが、それでもさらに幹に身をわずかに寄せ、息を吐くのも押えがちにする。
 こちらからは、霧を通してぼんやりとしか見えない城門がぎりぎりと鉄錆びを落としながら、閂が抜かれ、押し開けられるのが遠く聞こえる。


 ユグドラシルが昨晩、彼を呼んだ。
 近頃は、指示することの理由を語ることはない。彼もユグドラシルの指示を問い返すことはない。復唱しうなずくだけだ。たまには、ユアンが側にいて、ユグドラシルに理由を尋ねたりすれば、たちどころに彼の意識は遠くへと去る。聞いてどうなるものでもないし、聞かない方がかえって気楽だ。何も知らなければ、彼が手をかける相手がどのような生を送ってきたかを知らなければ、あの全てを互いに分かち合っていたあの人を断ち切った感触が蘇らないはずだと自らに言い聞かせている。


 たまに、ユアンと目が合うとき、彼の眼差しが思い出させる。人はその見たいと欲するものを見るのだと、いつ、聞いたのだろう。誰しもがかけがえのないものを失ったはずなのに、ミトスが見ているものと、己が見ているものと、さらにはユアンが見ているものは、等しく同じものでありながら、すべて異なって見えているだろうか。ユグドラシルの理想はユアンの見る理想ではない。ユアンの理想はユグドラシルにとっては、はるか以前からありえない夢だ。ユグドラシルの正義を全うするだけの自分は、すでにユアンにとっての正義ではないはずだ。だが、もはや見たいものがない自分には、見せ掛けの正義さえも意味を持たない。


 時間はただ過ぎる。速いのか、遅いのか、よくわからない。わずかな風の流れを霧の動きから読み、日の動きを、一秒、一秒を頭の中で数える。
 指示されたものが見えてきた。軽く助走をつけ、霧が深くなった川面を飛び越え、城門より走り出した人の前に立つ。背後に、彼の急な動きに驚いた鳥達が羽音も激しく、一斉に川面を越えて反対側へと飛び立つのが感じられる。冷たい空気を切り裂く羽の高い音と、静かに降り立つ彼の黒い影を予期していなかった二人はただ呆然と立っている。
 目の前にあるものは、彼の予想に反してまだどことなく少女の面影を残していた。左手に大切そうに抱えるわずかな荷物と右手に彼女を守るように立ち尽くす若い男の手をとり、予想もしないところから飛び出してきた彼を怯えたように見つめる。その目は、とても澄んだ青色をしており、豊かな金髪に映えて印象深い。彼は心の中に浮かぶ面影を封じ込める。二人は突然飛び出した天使にただ驚き、これが何を意味するのか分かっていない。
「教会の指示を聞いていなかったのか。お前はここを出てはならないはずだ」
 怯える女に向って言い聞かせる。その青い目に免じて、黙って戻るなら見なかったことにしてやる。心の奥底に潜む別の己がここで血を流すことを嫌がっている。
「頼みます。見逃してください」
「お願いです。どうぞ、私達をこのまま見過ごして下さい」
 二人は口々に彼に向って哀願する。何も知らないこの者達は彼を天からの使いと知り、自分達が犯そうとする罪業の深さにおびえながらも、健気に互いを支えあい、その愛だけを頼りにそこに立っている。彼の頭の中で指示が繰り返される。
『女は連れ戻し、男は殺せ。順番はどうでもいいよ。あの女は、まだ、こちらの神子の保険に必要だ』


 まだ、轍の後もくっきりと固まり、低く伸びる朝日に白々と凍りついた道を城門に向って歩く。
 その硬く凍てついた道は熱い血しぶきにも溶けず、倒れた男のうつろな目はすでに何も映さない。男の体の下からゆっくりと広がる黒ずんだ跡は動かなくなったその者の最後の名残だ。血塗れた剣を軽く振り払い、清めた後は、もう叫びもせず目を見開いているだけの人形のような女を連れて歩く。この目は見たことがある。うつろな青い目は以前見たことがある。だが、どこで見たのか、そのとき自分が何を感じたのかは忘れたつもりになっている。
 彼も心の奥底では気づいている。だが、認められない。あの全てが失われたときと剣の感触はいつも同じだ。吐き気を催す生臭い血のにおいは、彼の周りから消えることはない。今、目の前で最後の呻きと共に無理やり失われた愛までがあのときと何から何まで同じなのに、ここにいる己は違うものであると思い込む。
 何も考えてはいけない。
 指示に従えばそれでよい。
 何も知ってはならない。


 デリス・カーラーンの入り口に同じ色の目が佇んでいる。同じだが違う目。しっかりと自分を見据え、名前を呼ぶ。以前は呼ばれればそれだけで胸が震えたその声が、今は彼を凍りつかせる。その声が呼び出そうとしている己の中に封じ込めている、今となっては名づけようのないものが恐い。ユアンが意図せず見せようとする想いとそこから暴き出される苦しみに直面したくない。己の中に飼っている精霊の王までもが囁きかけているのを無視する。
 愛などただの幻想に過ぎない。消えたものは決して蘇らない。手に入ったと思っていたものは、気づくと遥か遠くで彼をあざわらうかのようにちらついているだけだ。ユアンが見せる、彼が信ずる数千年前の蜃気楼に惑わされてはならない。決して手に入らないものを求めさえしなければ、絶望へと放り出されることもないのだ。
「クラトス。無理をするな。己を偽ってはいけない」
 ユアンの声が、彼をあたかも見なかったかのように通りすぎるクラトスの背を追いかける。振り向かない。ユアンが追ってはこないことを知っている。それがユアンの優しさであると分かっている。今、彼が望むのは互いに係わり合わないことだから、心配しながらも追ってこない。


 冬を過ぎなければ、春は訪れない。失くしたものは戻らなくとも、心の内のその輝きが褪せることはないのだ。幼い子供でも知っている自然の理を認めることができない。さきほどの身も心も凍るような寒さのなかでも、朝日が差せば、わずかに風とともに動くものがある。溶け出した氷の一滴は遠く海へと続く道を流れ出す。だが、彼は頭の中の砂時計だけを見つめ、こぼれ落ちる砂の一粒、一粒を数えているだけだ。

PREV | NEXT | INDEX
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送