ウェディング・ドレス

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 傭兵が扉を開けると、彼の妻は真っ白な布地に埋もれていた。
「クラトス、汚れた靴で部屋に入らないで」
 どうしたのだ、と彼が問う前に、アンナがぴしりと命令した。仕事を終えて久しぶりに帰った夫に掛ける第一声がそれか、とも言えず、クラトスは反射的に足をとめた。それから、靴が汚れているかと恐る恐る自分の足元を確かめた。夫の様子に、アンナも自分の理不尽態度を自覚したのか、布地を慌てて畳むと立ち上がった。
「ごめんなさい、声なんかあげちゃって。そして、お帰りなさい、クラトス。お疲れ様でした」
 まだ足を踏み入れたものかどうか、逡巡しているクラトスにアンナが近寄る。小柄な体で精一杯伸びをすると、軽い口付けが彼の唇を掠めた。
「あ、ああ。遅くなった」
 クラトスは恐々と自分の家の敷居をまたいだ。
 うかつに動いては、また何か言われるかもしれない。数歩入ったところで、クラトスは動かずに周囲を見渡した。白い布地の塊を除けば、数週間前に、仕事へ出たときと変わっていない。そういえば、幼い子供の姿が見えない。
「ロイドはどうした」
「さっきまで、お父さんを待っていたのだけれど、もう寝たわ」
 手際よく白い布地は棚の上へと片付けられ、型紙もその横に置かれる。クラトスのいる空間はたちどころに見慣れた小さな居間へと戻った。台所と兼ねたその部屋は、小ぶりの食卓と食器棚に予め取り付けられていた流し台でもう一杯だ。壁際に押しやられたように置かれたソファには、針仕事道具が乗っていた。簡素ではあるが、人のぬくもりに溢れた空間は、どんな場所よりもクラトスを満足させた。そして、いつでも彼を魅了する大事な人が前にいる。
「すぐに食事の支度をするわね。仕事が伸びて、今夜はもう帰られないのかと心配していたのよ」
 それにしては、たいした歓迎ぶりだったな、と嫌味の一言でも言うべきだったかもしれない。しかし、妻には甘いと自覚はある。それに、まん前に妻の不安に揺らめく瞳を見れば、落ち込んだクラトスの気分は一気に吹き飛んだ。結局、クラトスは文句を言うどころか、前に立つ妻の額に慰めの口付けを与え、あまつさえ、自ら謝った。
「すまなかった。最後に支払いの件で時間がかかってな」
 腰から大剣を剣帯ごとはずすと、アンナが手慣れた動作で受け取り、居間の棚へと仕舞いこんだ。横に針箱も置かれた。ロイドが動き出すようになってからの二人の間の約束だ。幼子の手の届くところに、危険な物も壊されて困る物も置いてはならない。
 アンナは炉に火が注ぎ足した。すぐさま、上に乗せられた鍋がふつふつと沸き、食欲を誘う香が漂いだした。アンナはグラスと酒瓶、皿と手際よく食卓に準備をしている。その間にクラトスはマントをはずし、用意してあった水差しと洗面器をありがたく利用して、旅の汚れを落とした。
「私、一緒に食べようと思って、お夕飯、待っていたのよ。お腹がぺこぺこ」
 薄く切られたハムやチーズが並べられ、温められたスープが皿へと注がれる。席についたクラトスは二人分のグラスに一口ずつワインを注いだ。
「お前はロイドと先に食べていればよかったのだ。私を待たなくてもいいのだぞ」
 とたんに、彼の前で輝いていた茶色の瞳が悲しそうに揺れた。
「クラトス、私と一緒では嫌なの」
「いや、アンナ。そんな顔をするな。そういう意味で言ったのではない。空腹を我慢しなくてもよいと……」
 これ以上、アンナに悲しい表情を浮かべさせられない。クラトスは咳払いをすると立ち上がり、妻の椅子の横で腰をかがめた。
「遅くなってすまなかった」
 今にも涙が零れ落ちそうに見開かれた瞳は、彼が唇を寄せるに連れ、ゆっくりと閉じられた。重ねられた唇は互いに会わなかった時間のせいか、ややぎこちない感触だった。が、アンナの腕がクラトスの首へと絡みつくと、熱を帯び、どこまでも相手を求める激しさへと取って代わった。
「食事は少し待てるか」
 掠れた男の声にアンナはもう一度首に回した腕に力を込めた。了承の答えにクラトスも無言で妻を抱き上げ、ソファへと向った。


 火照った頬を夫の肩に寄せ、アンナはうっとりと目を閉じている。たくましい腕が彼女の腰にめぐり、淋しく一人で過ごす夜は終わった。ロイドもいるし、ご近所も皆親切にしてくれている。それでも、夫の不在を埋めるには少しだけ足りない。肌を合わせた後の心地よい気だるさに、アンナはクラトスの胸に軽く唇を寄せた。
「お前も人並みに式をあげたいのか」
 とうとつな質問が頭の上から降ってきた。
「え、なんのこと」
 クラトスの体温にうとうとと夢見心地にアンナは問い返した。
「いや、あれだ。あれは、結婚式に使うものではないのか」
 夫の問いかけに目を開けば、クラトスが棚の上へと目をやっていた。
「クラトスと私のためじゃあないわよ」
「では、あの白い布地は何のためだ。まさか、私が留守の間に他の男から貰ったのか」
 すっかり勘違いした不機嫌な声が響く。アンナは身を起こすと、夫の顔を見上げた。細められた琥珀色の瞳は心なしか赤く燃え上がっている。炉の炎の照り返しだけではないだろう。日々の暮らしと子育てに追われる彼女に一体どこの男性が興味を持つというのだろう。
「私になんか、誰もくれないわよ」
 くすくすとアンナは笑った。
「いや、お前は無防備だ。隣の男から桶一杯の牛乳を貰っているだろう。一軒おいて向こうの農夫だって、野菜を一日おきに持ってくるではないか。しかも、トマトなど余計なものまで」
 隣の男は齢七十歳のとても素敵なお爺ちゃんだし、お婆ちゃんの作るカレーライスはあなただってぱくついているじゃないの。おまけに、ロイドを自分達の孫のように可愛がってくれている。農夫って、結婚歴二十年のヘイを指しているつもりなのかしら。育てている自慢の野菜と奥さんしか目に入っていなじゃないの。それに、ロイドが生まれたときには、奥さんにすごくお世話になったじゃない。
 アンナが呆れている間も、クラトスが自分が危険と看做した人物を次から次へとあげている。この分では、教会の神父様まで極悪人になりそうな勢いだ。
 アンナはクラトスの膝の上で体を伸ばし、文句をつける唇を自分の指先でふさいだ。何度も口付けを繰り返した夫の唇は触れるだけで熱が感じられた。突然、クラトスはアンナの人差し指に舌を這わせた。肉刺の出来た固い手が彼女の手を握りこみ、擽るように夫の舌が蠢く。たまらず、アンナが軽く声をあげた。クラトスは素早くアンナの唇を奪った。彼女の咥内にクラトスの舌が忍び込み、アンナは呻きながら、その愛撫に応える。クラトスは出来うる限り優しく、妻をソファの上へと横たえた。
「クラトス、食事を先にしましょう」
 息絶え絶えのアンナの訴えをクラトスは一言で切り捨てた。
「後だ」
 真剣な夫の表情を見上げ、アンナもにこりと笑顔で答えた。
「素敵。でもソファを壊さないでね」


 うとうとしていたアンナは規則正しい寝息が耳元で擽る感触に目を覚ました。いつもより激しく求められたせいか、その後、いつもより多めにワインを飲んだせいか、いつのまにか転寝したようだ。ソファに寄りかかっていたはずだが、今は寝室にいるらしい。腕の中にあるのは、夫よりも一際体温の高い。幼子の柔らかい髪の感触に鼻先をうずめると、その向こうから夫の低い声が聞こえた。
「目が覚めたか。起こさないつもりだったのだが」
「ううん、運んでくれたのね。ありがとう」
「ロイドが寝ぼけて起きてきたので、一緒にだ」
「まあ……」
 慌ててアンナは我が身を確かめた。何も身につけていない。驚きと非難の声をあげると、夫はいつもの落ち着いた声で彼女を宥めた。
「そのままでも、まだロイドは気にしない。無論私もだ」
「そういう問題ではないわ」
 ひそひそと、しかし、確実に怒りをもってアンナが答えた。
「朝まで後わずかだ。ロイドが起きる前に着替えればよいだろう」
「クラトス、夜着を取ってくださいな」
 断固とした声にしぶしぶと夫が起き上がった。
「あなたももちろん着用してくださいね」
 有無を言わさない指摘に、クラトスはほぅっと長いため息で返事した。暁の光にぼんやりと大きな人影が動く。ぱさりと渡された夜着をロイドを起こさないようにと手早く身につける。クラトスは夜着の下履きを身につけると、そのまま、ベッド脇に腰を下ろした。薄闇の部屋に、夫の鍛えられた上半身の影が見事な芸術品のようだ。アンナがしげしげと見つめていると、クラトスがとうとつに口にした。
「さきほどのドレスの件だが」
 まだこだわっているのかしら。アンナは首を傾げた。
「あれは、隣村の娘さんが嫁ぐので、縫い物が上手ってことで、ドレスの仕立てを頼まれただけなの。すぐに終わらせるつもりだけど、あなたの邪魔にはならないようにするつもりよ。さっきはごめんなさい。人様の物だから汚してはならなかったの」
「いや、そうではない……」
 何か考えているときの夫の癖だ。途中で言いかけたまま、じっと動かない。せかしても却って黙り込むから、アンナも大人しく夫の横顔を観賞することにした。窓から差し込む朝一番の光に濃い茶の瞳が光った。
「私達が夫婦になってから、生活に余裕がなくて、すまないと思っている」
「なに。どうしたの、クラトスったら。それは私のせいでもあるのよ」
「いや、全ては私が至らぬせいだ」
「自分がしてないことまで、謝らないで。そんなクラトスは嫌いよ」
「……お前に散々言われていたな。それで、今回の働きが意外と高く評価されてだな。それなりにまとまった額をもらった。アンナ、お前さえ良ければ、あのようなドレスを作ってはどうだろうか」
「え……、そんなもったいないわ」
「アンナなら似合いそうだ」
 いまだかつて聞いたことのない褒め言葉に、アンナは思わず黙り込んだ。
「いや、嫌ならそれでいい」
 彼女の沈黙を勘違いしたのだろう。クラトスはそういうと、再び、ごろりとベッドに横になった。重みでマットレスが沈み、くるりとロイドが父親によりかかった。ぐっすりと寝ている幼子の横顔は父親によく似ている。目を閉じたまま、寄り添ったロイドに腕を回すクラトスを見ているうちに、アンナにある案が浮かんだ。
「クラトス、私、嫌なんて言ってないわ。そう言ってもらって、すごく嬉しかったわ。あんまり嬉しくて、言葉が出なかったの。それでね、今、一度きりのドレスよりもずっといいことを思いついたの」
 目を閉じたまま、クラトスが尋ねた。
「なんだ」
「その娘さんに聞いたのだけれど、近頃、町で写し絵が流行っているそうよ。機械の前に立つと、そのままの姿が紙に写るんですって。写真って呼ぶらしいの。三人で一緒にどうかしら。ロイドが大きくなったときに、私の姿に喜んでくれるのじゃないかしら。ドレスなんてすぐ着れなくなるけれど、写し絵はずっと持っていられるわ」
 だめかしら、とアンナが上からクラトスを覗き込んだ。開いた目がアンナを見つめた。探るような表情に、アンナは軽く首を横に振った。
「ロイドが成長したら、そのときのお前を見せればいいだけだ」
 苦しそうに、クラトスは目を細めた。与えられた試練のときは、もうすぐそこなのだろうか。無言の問いが二人の間に放たれる。アンナはもう一度首を横に振った。そして、大丈夫だと教えるつもりで笑顔を浮かべた。
「もちろんよ。そのつもりよ。でも……若い私を自慢したいのよ、ね」
 あなたは変わらないでしょうね。アンナは大事な息子が成人した未来を思い描いた。全く変わらない夫とその夫と良く似た息子。その横にいる私はどうなっているのかしら。そこに私の席はあるのかしら。石が私を食い尽くしても、この子は私を忘れないでくれるかしら。
 クラトスは軽く目を閉じ、再び、アンナを見つめた。内心の葛藤は互いの胸の中へと収められ、二人は穏やかに微笑みあった。
「そうだな。アンナの考えはとてもいい。いつまでも変わらずきれいなお前を自慢できる機会をみすみす逃すこともないな。明日、町に出かけよう」
 

 町の写真屋は器用にペンダントに合わせて、写真を切り抜いた。
「いやぁ、これだけお幸せそうな家族写真が撮れて、私も嬉しいですよ」
 慎重にペンダントの爪を開き、写真屋が手慣れた動きで写真を嵌めこむ。
「最初は旦那さんの仏頂面にどうなるかと思いましたが、なかなか、いい顔になっていますよ。それに、どうです。奥さんの表情のいいこと。うちの看板写真にさせてもらいたいですな。いや、息子さんも大きくなったら、お父さん似のいい男っぷりになりそうですな。さぞかし女性を泣かすでしょうな」
 ぺらぺらと話しながらも、もう一度枠を乗せ、写真を固定する。写真屋の手先を睨みつけていたクラトスも、もう大丈夫と判断したのだろう。待つのに飽きた息子を抱いて、店先へと出て行った。
 一人残されたアンナは、手にした名刺代の写真をもう一度見直した。新しいものが好きな息子は目を輝かせて前を見ている。カメラが気になったのだろう。彼女の肩に手をかけ、クラトスが真っ直ぐな姿勢で立っている。彼らしい姿であるが、口に浮かぶ笑みはとても柔らかい。私だって滅多に見られないのに、とアンナは写真屋の腕に感心した。ロイドをしきりに褒めてくれたおかげに違いない。そして、ロイドを膝にのせた私はどうかしら。こんなに素敵な男性二人に囲まれて、幸せな表情以外、できるわけないから、大丈夫。
 うん、と頷く彼女に写真屋が未練たらしく、再度頼んだ。
「奥さん、本当にうちのウィンドウに飾っちゃ駄目なんですか。別にお代を取ろうってわけじゃないんですよ」
「ごめんなさい。でも、私達訳ありなの」
 勝手に駆け落ちしたと思い込んでいる写真屋は首を振った。
「あんなかわいい子供が出来て、反対する親なんていやしませんよ。奥さん、思い切って里に帰ってみなさい」
 親身に励ます言葉にアンナは頭を傾げて、感謝を表す。そうかもしれない。ロイドと会えたなら、私の両親も、おそらく、彼の両親も私達を誇りに思っただろう。そのときが来たら、よくやったと両手を広げて迎えてくれるに違いない。それまで、私はロイドにもクラトスにも両親達にも恥ずかしくないよう、生きていくつもり。
「そうね。そのうち、両親に会えるときが来るかもしれないわ」
 アンナは年老いた写真屋に静かに返事した。写真屋がガラスの表面に息を吹きかけ、鹿皮で磨き、出来栄えを確認する。午後の日を浴びてペンダントは貴重な金剛石よりも明るく輝いた。
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