メタモルフォーゼ(変容) 番外編

モクジ

  愛の歓び  

 華やかな新年の宴も終わり、招かれた客は三々五々家路とついた。残った少数の者は早めに引き上げた皇帝夫妻の私的なサロンに集っている。皇帝夫妻を囲み、政府の要職を占める者達が日頃とは異なり、すっかりくつろぎ、談笑している。アニスはサロンの壁に並べられている椅子の一つに腰かけた。皇帝の斜め後の定位置に彼女の夫が立ち、元帥と何やら話している。振りむいた皇帝が機嫌良く笑い、それに答えてジェイドが身をかがめ、脇のワイングラスを差し出した。数人の貴婦人が皇妃の周囲に侍り、カクテル・グラスを片手に笑っている。
 淡いオレンジ色の壁に小さなマルクト帝国の文様が壁紙に幾何的に配置された壁紙に、落ち着いたベージュの絨毯が敷かれている。壁沿いに配置されたマホガニーの机にはバチカル帝国産の飾り皿が飾られ、隅にはベルケンドで作られた精巧な置時計が飾られている。中央のテーブルには新年にも関わらず、春の花がふんだんに飾られ、部屋を明るくしている。奥にはピアノが置かれ、見知らぬい貴婦人が軽やかな旋律を奏でていた。そのサロンは青と白が基調となっているマルクト王宮には珍しく、暖色で固められ、新年の宴の後にちょうど良いこじんまりとした雰囲気だった。


 この数時間、立ったまま、他国の要人や教団の使節と新年の挨拶を繰り返していた。退屈で儀礼的な応対に、アニスはすっかり疲れていた。だから、軽いフルーツ・カクテルを啜りながら、一人でのんびりと座った。同じく新年会で形式張った応対に終始していたはずのジェイドは、さすがに年の功か、疲れも見せず、表面は笑みを浮かべ、会話に余念がない。畏まった席は肩が凝るばかりでいけない。カクテルグラスをくいと傾け、アニスは全部飲みほした。ちょうど、貴婦人の演奏が終わり、皆が軽く拍手を送る。アニスもグラスを置き、慌てて拍手した。
 軽く会釈をした貴婦人は知り合いらしい女性を手招きし、次の演奏が始まった。聞いたことのある美しい旋律が奏でられる。こんな場所でお遊びとは言え人前で演奏するなんて、よほどの腕があるに違いない。他人事のように、アニスはピアノの前に座る女性に感心した。身を乗り出しで聴き入るアニスの横の席に座る者がいた。
「アニス、今日は一段ときれいだな。そういうドレスを着るとまるで別人みたいだぜ」
 馴れ馴れしく話しかけてきたのは、旅の仲間にして、グランコクマでも軒を並べるとはいかずとも、ごく近くに住んでいるガイだった。
「今晩は、ガイ。新年会に出席しているのはわかっていたけれど、さっきはゆっくりどころか、挨拶をする暇もなかったね。それにしても、私を褒めても何も出てこないよ。だいたい、こんなにお腹が出ちゃって、きれいもへったくれもないもの。ほら、さっき、ピアノを上手に弾いていたお嬢さんにでも声をかけてくれば」
 アニスはドレスの上から目立ってきたお腹を撫で、混ぜ返した。ガイは手にしたワイングラスを軽く持ち上げ、片目をつぶった。
「アニスのご忠告、有り難く頂戴しておくよ。それにしても、ジェイドの旦那がアニスを宴会に連れて出てくるとは驚いたな。ここ最近、大事をとってるとかで、ちっともアニスの顔を見なかったからな。グランコクマの街中でも出会わないし。アニス、元気にしていたかい。ジェイドの旦那は相変わらずみたいだけど、アニスはどうなんだい」
「ガイったら、そんなパパかママみたいな心配をしないで。元気でやってるよ。まあ、ジェイドがうるさいから、あんまり外には出ていなかったんだけど、もう大丈夫。大体、皇妃様が出席するのに、私が出ないなんて変じゃない。ジェイドも陛下に言われて、こればっかりは駄目って言えなかったみたいだよ。初めての経験だから何かと戸惑ったけれど、私はすっかり慣れたよ」
 師団長夫人らしからぬいたずらな笑みを浮かべ、アニスは椅子の背に寄り掛かった。今年の新年会もそれなりにこなせたので、アニスはご機嫌だった。
「こんなにきれいになったんだから、結婚生活を満喫してるってわけだ。もうすぐお目出度だしなぁ。なんでだか、アニスの方がなんでも俺より先だもんな」
 くすくすとガイがからかうように笑う。アニスは心ならずも頬を染めた。
「いやねぇ。人をからかう暇があったら、恋人探しでもしたほうがいいんじゃないの。私の知り合いのお嬢さんで、すんごくかわいい子がいるんだけど、ガイ、どう。ジェイドもとてもいい人だってお気に入りなんだよ」
「アニスとジェイドの知り合いで、二人のお気に入り……。それは、よく考えさせてもらうことにするよ」
 心なしか身を引いたガイにアニスがじろりと睨みつけた。
「ガイ、それってどういう意味なのかなぁ。ジェイドにガイが私達のこと信用できないみたいって、言っちゃおうかなぁ」
「おいおい、新年早々それはないだろう」
 逃げ腰のガイにアニスはぷっと吹き出した。


「ガイとアニス」
 良く通る声が二人を呼んだ。もうすぐ待望の子どもが生まれるとあって、ピオニー陛下も新年会はご機嫌だった。今も、皇帝は片手にワイングラスを持ち、空いた手で二人を指し招く。サロンで大声を出すなんて、とアニスは呆れた。
これが、他の者がしようものなら、不作法な、と顔を顰める貴族達も皇帝陛下には何も言えない。返事をする代わりに、すぐさま立ち上がったガイが了承の挨拶をし、立ち上がろうとするアニスへ手をかした。
「なんですか、大声を出されて、ピオニー陛下」
 同じく呆れ顔のジェイドや宰相や元帥に囲まれた皇帝陛下にアニスが尋ねた。
「せっかくの新年に、ジェイドが暴れるといけないからな。ジェイドが爺さん連中の相手をしているときに、ガイと二人で仲良く笑っているのはまずいだろう。二人で話をするなら、こっちに来いよ」
 とたんに、ジェイドが皇帝の許しもなく口を挟んだ。ごく私的なサロンの集まりだから、気を許してお酒を楽しんでいるに違いない。アニスに向ってご機嫌な表情で片目を瞑る夫の姿に、アニスも思わずにんまりと笑い返した。
「新年早々、誰ですか、人の悪口を言っているのは。ゼーゼマン閣下が爺さんとは誰のことかと尋ねていらっしゃいますよ、陛下。それに、ガイとアニスが旧交を温めているのに、私が邪魔するわけがありません。それより、アニス、せっかく座っていたのに、陛下に呼ばれたぐらいで立たないでください。さあ、今日はずいぶんと人に会っていますから、ゆっくり休んでください」
 あなたも大事な体ですから、とつかつかとガイに近寄ったジェイドは、アニスの手を自分の腕へと導いた。
「ほらな、ガイ。俺が気づいてやって良かっただろう。後数分もしたら、ジェイドが何か良からぬことをたくらんだろうが、今なら、これでお仕舞いだ」
 ジェイドの嫌味にもめげずにピオニー陛下は嬉しそうに笑った。え、そんなに制限時間は短いんですか、とガイがジェイドを冷やかした。
「さあ、アニス、こちらにいらして」
 ピオニー皇帝の横に座る皇妃が手招いた。ソファの空いたところを軽く指し示す。
「皇妃のお招きでは仕方ありませんねぇ」
 ジェイドが嘆息しながら、貴婦人達に囲まれたネフリーの横へとアニスを案内した。
「せっかくですもの、待ち遠しい出来事のお話を一緒にしましょう」
 こちらもゆったりとしたドレスに身を包んだネフリーが親しげにアニスの手を握った。皇妃が話題にした途端、周囲の貴族達が二人に向って口々に祝いを述べる。待ちに待たれている帝国の跡継ぎならともかく、自分までもと困って口ごもるアニスの横で、貴婦人達が互いにかわいらしいと囁き合った。
「本当に初々しいくてうらやましいですわ。よろしかったら、一曲、いかがかしら」
 ちょうどピアノを弾き終わった女性が近づいてくると、アニスに声をかけた。まさかの申し出に、アニスはさらに困惑した。悪気はないのだろうが、アニスは貴族達のような嗜みとはとんと無縁だ。助けを求めるようにアニスが周囲に目を走らせると、何を思ったのか、ピオニー陛下が突然言い出した。
「そうえいば、随分長い間、ジェイドが弾く姿を見たことがないな」
 とたんに、周囲の会話がぴたりと止まった。アニスが何事かときょろきょろと周りの人達の顔色を伺った。気まずそうな人々の間で、最近見たこともない固い表情でジェイドが立っている。ネフリーが取り成そうと腰を上げかけたところで、ようやく、ジェイドが動き出した。
「陛下のご要望とあれば……お断りもできないでしょうか。しかし、初陣以来、随分と長い間弾いておりませんので、皆さんのお耳汚しにしかなりませんが」
 そこで、ジェイドはアニスへと振り返った。許しを乞うように赤い瞳が瞬き、強張った表情が緩まない。初陣の後に夫の身に起きた出来事が原因に違いない。何だって出来る人だから、ピアノが弾けたって何の不思議もない。触れたくない理由があるのだ。きっと、今は亡き前妻と一緒の宴で弾いていたのだろう。無理をしては欲しくない。陛下の言葉を取り消すにはどうするべきだろうか。
 戸惑うアニスを他所に、ピオニー陛下は平然と続けた。
「前はよく弾いていたじゃないか。一曲ぐらいいいだろう。アニスも聞きたいだろう」
 陛下が屈託なく笑った。アニスはふいに悟った。皇帝陛下は、躊躇せずに過去を話題にすることで、過去を過去とする機会を与えようとしている。じろりとピオニー陛下を睨みつけ、何か言いたそうな夫に、アニスは励ますように声をかけた。
「私も聞きたい。ジェイドならきっと上手なんだろうね。今もどれぐらい弾けるのか教えて」
 片眉を吊り上げ、ジェイドはアニスの言葉を繰り返した。
「どれぐらい弾けるか、ですか。アニスにお願いされては、もう断れませんね」
 つかつかとピアノの前に寄ると、立ったまま、ジェイドは軽く鍵盤を一つ、二つ叩いた。ポーンと澄んだ音が部屋に響いた。ぱちぱちとネフリーが拍手した。
「すごいわ、アニス。あなたの一言だけで、兄さん、ここまで動けるようになるのね」
 アニスにだけ聞こえる小さな声でネフリーが言った。
 椅子に座ったジェイドはさらにいくつかの和音を弾いた後、アニスを呼んだ。
「それでは、私達から皇帝陛下ご夫妻にお祝いを贈らせていただきます。アニス、あなたが得意なダアトの子守唄を歌っていただけませんか。あの歌は皇妃様もきっと気に入って下さるはずです」
 さあ、とジェイドは椅子の脇にアニスを腰掛けさせた。
「私が歌ったりしたら、せっかくのジェイドのピアノが……。それに、私、たいして歌、うまくないもの」
 アニスがひそひそと囁くと、ジェイドが軽く笑った。
「でも、私はあなたがあの歌を歌っている姿が好きなんですよ。このぐらいの音域でいいですか」
 ぽろんと音を重ね、ジェイドが促す。仕方なく、アニスは母親から教えられた子守唄を歌いだした。物静かで単純な旋律が抑えられたピアノの伴奏の上を漂う。ざわめいていたサロンは素朴な子守唄にしんと静まり返った。
 アニスがひとしきり歌い終わっても、旋律をなぞるようにジェイドがピアノを奏でる。波に揺さぶられるように主旋律が漂い、周囲をかろやかに副旋律が追いかける。アニスは聞きなれた旋律に目を閉じ、柔らかな音に包み込まれる。滅多に言うことはないけれど、あの赤い瞳に現われる表情と同じではないだろうか。アニスの前に突然、はっきりとした景色が浮かび上がる。爽やかな春風に舞い散る花びらの下に、アニスは確かに二人の子供が眠る姿が見えた。
 ああ、この人は心の底から私と子供を慈しんでくれている。
 ずっと待ち望んでくれている。


 ガラス細工のように煌いた高音が高い天井へと吸い込まれる。思わず、うっとりと夫の演奏に聞きほれていたアニスは、いきなり沸いた拍手にびくりと立ち上がった。
「素晴らしい。ジェイド、お前、今まで本気で弾いたことなかったんだな。昔はよく聞いたものだが、すげぇと驚くだけだったものな。俺、思わず、泣いたぞ。お前の演奏で感動する日がくるとは思わなかったなぁ」
 目頭をこすり、ピオニー陛下が立ち上がると、一際大きく拍手をした。
「ネフリーへの祝いに、これほど素晴らしい演奏を贈ってくれるとは、ジェイド、さすがだ。アニスちゃんの愛のおかげだな。いや、よくぞ、ジェイドのところに来てくれたなぁ。アニスちゃん、ありがとう。ジェイドに代わって礼を言うぞ」
 お礼とも思えない言葉と共に、ピオニー陛下はアニスの手を強く握り締め、ぶんぶんと勢いよく振った。周囲の貴族達も、皇帝陛下の反応を当たり前のように受け止め、賞賛の言葉を浴びせようと、アニスとジェイドと取り囲んだ。
「ジェイド、お前も俺に劣らず幸せなんだなぁ」
 遠慮会釈のない皇帝陛下の声に、ジェイドが顔を顰める。座っていなければならないはずの皇妃が立ち上がり、アニスの側へときた。
「アニスちゃん、あなたのおかげね」
 皇妃も弾んだ声でアニスに礼を言った。
「まさかのまさかね。兄さんが照れている姿を見られるなんて」
 えっとアニスが顔を上げると、軽く口元に手を当てたジェイドが元帥に肩を叩かれていた。もちろん、ピオニー陛下は満面の笑顔でジェイドの脇をつついている。サロンに漣のように笑い声が広がる。半ば硬直したままのジェイドが救いを求めるようにアニスを見た。片手で眼鏡のブリッジを押さえ、何を言うべきか、言葉を捜している。
「アニス、ジェイドの情けない顔を新年早々拝めるなんて、これはついているな」
 皇帝陛下の声に皇妃までが笑いを抑えかねて、噴出した。
「陛下、ジェイドをあまり苛めないでください。パパになるうえに、伯父さんにもなるから、覚悟がまだ出来ていないんです」
「俺はいつでも大丈夫なのになぁ。伯父さんになるのも大歓迎だぞ。死霊使い(ネクロマンサー)様がいったいどうしたんだ。やはり、ジェイドも人の子ってわけか」
 同意する声がそこかしこで上がるなか、いつもなら、立て板に水の弁舌でかわすジェイドが言い訳にもならない言葉をもごもごと呟いた。ひとしきり、周囲の貴族達の冷やかしと祝いの言葉が落ち着くと、陛下の一声で新年と待ち遠しい日の祝いのグラスが用意される。ガイが気を利かせ、よく冷やされた果汁のグラスが皇妃とアニスに手渡された。
「死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドとアニスの愛に。そして」
 杯を片手に、ピオニーは皇妃の前で深くかがみ、もう一方の手で妃の手を取った。
「俺とネフリーの来るべき幸せに」
 貴族達がわっと囃し立て、ピオニーとジェイドがグラスを合わせるとあっという間に飲み干した。
「ああ、うまい酒だ」
 ピオニーの遠慮ない言葉にジェイドも軽くグラスを掲げ、アニスへと優雅に頭を下げる。アニスもそれに答えるように、手にしたグラスを小さく上げた。彼女の知らない過去は笑い声と共に霧散し、ガラス越しの赤い瞳はアニスだけを見つめている。幸せなのは私なんだよ。音にすることはなかったが、小さく唇を動かした。
 すぐさまに気づいたジェイドがアニスへと嬉しそうに身を屈めた。
「私こそがこの部屋で最も幸せですよ」
モクジ
 
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