ハロウィンのお話 2010

モクジ

  大人の恋  

 香ばしい匂いが家中に立ち込めている。誰もいない家に明りがついていて、冷たい風に冷えた体に暖炉の火が心地よく、一日ろくな食事を取っていない空きっ腹には刺激的な食事の匂い。そして、最近しばしば感じる胸の痛み。嬉しすぎると、人の胸はたまに膨らみすぎて、苦しくなるようだ。ジェイドは玄関前で外套を脱ぎ捨てると、そのまま台所へと向った。
「お帰りなさい」
 彼の足音に気づいたのだろう。アニスがフライ返しを握ったまま、彼の方へと振り向いた。毛先の踊った黒髪のお下げが彼女の動きに合わせて、揺れる。まとめきれないほつれ毛が、彼女の頬の辺りでくるりと巻いている。調理の熱なのか、アニスに会えた歓びの熱なのか、ジェイドの体はにわかに熱を帯びる。
「いつ、グランコクマに来たのですか。教えてくだされば、港まで迎えにいったのに」
 そう言いながら、ジェイドはエプロン姿のアニスを抱きしめた。フライ返しを握ったアニスの手がやり場に困ったようにゆれ、どうにか調理台の上にフライ返しが引っかかった。やがて、台所に広がる煙にアニスが我に返って、ジェイドの腕から抜け出した。
「せっかく、クッキー焼いていたのに、焦げたよ」
 滅多に使われないオーブンから白い煙が上がっている。あちゃー、と頭を抱え、アニスが慌てて鉄板を取り出した。
「ちょっと茶色が濃い目なだけじゃないですか」
 季節らしい、蝙蝠やカボチャの型にくりぬかれたクッキーが所狭しと天板の上に並んでいる。アニスは重たい天板を傾け、ジェイドが言うところの濃い茶色をしたクッキーをお皿へと移した。
「カボチャも入れたし、オレンジピールで飾ってあるから、もっともっと橙色になるはずだったんだよ」 
 いかにも落胆した少女は丸めてあるクッキーの種をてきぱきと切り始めた。
「まだ、焼くのですか」
「ジェイド、今日が何の日か分かっているの」
 手を休めることなく、切り分けたクッキーが天板の上に並べられる。ジェイドはアニスの働きぶりを見ながら、焼き立てのクッキーをつまみあげた。外見はともかく、口の中でさくりと割れると、その味わいは毎回感激する。まさしく絶品だ。ついでにと、天板の上のクッキーに手を伸ばすと、ぱちりとアニスが彼の手の平をたたいた。
「まだ、焼けていないからだめ。それに、こっちはきちんと焼いて、配る分にするんだから、ジェイドは食べちゃだめ」
 オーブンを覗き込み、火加減を調節すると、アニスはさっさと天板を中へと入れた。
「この屋敷の主は私なのですが」
 一応、ジェイドは文句をつけてみたが、アニスはどこ吹く風でマドレーヌの型に種を絞り込んでいる。
「ねえ、聞いていますか。アニス」
「はいはい、ご主人様。では、ご主人様と私の夕飯のために、お手伝いをしてくださいね。コンロの上で、ポトフを煮込んでいるんだけど、味加減見てちょうだい。それから、サラダの上に卵とトマトを飾ってね。で、ジェイドの好きなサーモンのムニエルは最後に焼くから、そろそろ室温に戻しておいて。デザートは冷たい洋ナシのタルトだから、最後まで冷蔵庫にいれとおいてね」
 矢継ぎ早のアニスの指示に、ジェイドはポトフの蓋を開けて味見をした。アニスが現るまで、食事など生きるための栄養補給程度にしか考えていなかった。味を見るふりはしたが、正直に言えば、彼はナタリアほどの味音痴ではないが、微妙な匙加減は全くと言っていいほど分からない。それに、アニスが作れば何でもおいしい。これまた認めなくてはならないが、アニスと過ごす時間が長くなるにつれ、ジェイドは朝稽古を欠かせなくなった。ルークやガイほど若くないから、アニスのおいしい食事をで体重に影響が出ないと断言できない。
「ポトフはいつもどおり絶品です」
 お菓子に夢中になっているアニスは生返事で、次の種を作り出した。乾し葡萄が山のように刻まれているからには、お得意のカボチャのパウンドケーキを焼くつもりなのだろう。ジェイドは卵を縦割りにすると、サラダの周囲にトマトのスライスと交互に彩りよく並べた。実務的な観点からは、ゆで卵を一つ食べてから、トマトを丸ごと一つ齧っても、蛋白質とビタミンの補給になんら支障がない。しかも、調理器具、皿ともに汚れないのだ。しかし、仕事をしながら食べるわけではない、いや、アニスと共に楽しむのだらか、多少手間はかけてもいいだろう。
 冷蔵庫のバットには、よく脂ののったサーモンが塩コショウされ、フェンリルを浸したオリーブオイルに漬けられていた。見るだけで、涎がでそうだ。ジェイドは潔く台所における能力にはアニスに勝ちを譲った。しかし、これだけのメニューを見せられて、夜に邪魔が入れるのは少々癪である。ジェイドは猫撫で声でアニスに話しかけた。
「これは、いつも以上においしい夕食になりそうですね。ねえ、アニス、今宵はもうお菓子を配るのは止めて……」
 ジェイドのお誘いは、オーブンの火加減を調べようとしているアニスに遮られた。
「そんなところに立たれていると邪魔だから、ジェイド、どいて」
 言い返す間もなく、ジェイドは流しへと押しやられた。アニスはさっとしゃがんで、今度はほどよいやけ具合のクッキーが取り出される。アニスは慎重に熱い天板を調理台に置くと、準備したマドレーヌの並んだ天板をオーブンに突っ込んだ。
「ジェイド、クッキー用にお皿を一つとってちょうだい」
 アニスは火掻き棒で器用に火加減の調整をすると、重たいオーブンの蓋を閉じた。
「ここのオーブンは便利だよね。温度調節も簡単に出来るし、大きいくせに、中の温度がどこでも一定だし。夢見てるみたい。一度にクッキーでもマドレーヌでもたくさん焼けて、ジェイドの家のハロウィンって最高」
 両手を合わせ、ユリアかローレライに会ったかのように、アニスが至福の表情を浮かべた。満足そうなアニスの声音に、ジェイドは何を言っても無駄と諦めた。出来れば、台所のオーブンより彼の存在を上位に位置づけてもらいたいものだが、オーブンでアニスを呼び寄せられるなら、多少の不満は我慢しよう。それに、ピオニーのブウサギ、ガイの音機関、ティアのかわいらしい小物、ディストのみっともないロボット。誰にでもこだわりはあるものだ。


 
 一時間後には、ジェイドの家の玄関に橙色の袋が籠に山盛りに用意された。死霊使い(ネクロマンサー)の屋敷に相応しい風景にはとても見えない。その横に彼が立つのは、さらに場違いだろう。だが、とジェイドは玄関の外の飾りつけに目を走らせた。彼の屋敷は近所では子供たちに大人気だ。子供にかかれば、死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドもマルクト帝国に潜む悪をやっつけるヒーローに見えるらしい。
 実は彼もこの行事が嫌ではない。最初の年こそ、アニスに言われなければ、何をしていいのか分からなかったが、数年立つうちに、カボチャの選び方から飾りつけまで、すっかり腕が上がった。外にずらりと並べた電飾は、数週間前にガイに命じて作らせ、精巧な音機関が色の強さと発光の間隔を変えるので、漣のように光の波が動くのだ。そういえば、今年の飾りつけをアニスに褒めてもらっていない。
 くるりと振り向いたジェイドはあんぐり口を開けた。
 玄関脇の姿見の前で、アニスが仮装の最後の仕上げに余念がない。黒い足首まであるマントを羽織り、可愛らしい橙色のとんがり帽子を頭に乗せ、角度を調節している。脇から飛び出している橙色のリボンは彼が贈ったものだ。マントの中は大胆なオレンジの丈の短いタンクトップと黒のミニスカート、かわいらしいアニスのおへそが見えている。しかも、ミニスカートの下から健康そうなアニスの太ももが覗き、白黒の細いボーダー柄のニーソックスが合わせてある。
 これを他人に見せるのか。一瞬、すぐに脱ぎなさいと別の意味で物騒な言葉を言いかけ、褒めてもらいたそうに上目遣いをするアニスを前に、ジェイドはどうにか口を押さえた。好みを言わせてもらえば、マントの前をぴったりと閉じておいて欲しかった。が、ジェイドも近所の子供たちにはそこまで心が狭いわけではない。
 ふらふらと近づいてくるジェイドに、アニスがどうかしら、と小首を傾げた。それは反則技ですよ、とジェイドは口の中でつぶやき、アニスをしっかりと抱きしめた。
「アニス、素晴らしい」
 我慢できずに、唇を奪うと、さきほどまで試食していたらしいシナモンとバニラの香がふわりと彼の鼻先を擽った。


「それで、なにが起きましたの」
 優雅にティーカップを皿に置くと、ナタリアがぐっと身を乗り出して尋ねた。前には、アニスの手土産のカボチャのパウンド・ケーキとティア特製のカボチャ・パイが並んでいる。横に座っているティアもフォークを握ったまま、アニスにぐいと身を寄せた。
「ジェイドって、実は情熱的なのね」
 羨ましそうにティアが身を捩った。
「ティア、言葉の使い方が間違っているよ。ジェイドは所詮死霊使い(ネクロマンサー)なんだから、情熱的なんかなるわけないじゃない。どっちかって言うと、理性を失うっていうか、歯止めが効かないっていうか、暴走するっていうか」
 はうぁとアニスがぼやいた。
「気がついたら、玄関前にずらりとご近所の子供たちが並んでいたんだよ。もう、恥ずかしいったらありゃしない」
「まあ、そんな人だかりにも気づかないほど情熱的な口づけを」
 うっとりとナタリアが何かを想像している。
「ナタリア、何を言うの」
 ティアが恥ずかしそうに首を振り、真っ赤に頬を染めた。
「二人とも、夢が入りすぎ」
 全く彼女の悩みを理解しているように見えない、かつての旅の仲間にアニスは釘をさした。
「ナタリアはそんなことないだろうけど、ティア、考えてみてよ。ルークと延々とキスしているところを近所の人とか、おじいちゃんに見られたら、平静じゃいられないでしょう」
 アニスの解説などどこ吹く風で、ナタリアとティアが顔を真っ赤にしながら、何かを想像している。
「しかも、見られていると分からないほど情熱的な口付け」
「ルークに出来るかしら」
 そりゃ無理でしょう、と喉まででかかったが、アニスは友人達を夢の世界に浸るがままにした。この二人の恋人達なら、ジェイドのような馬鹿なことは絶対に言わないだろう。いや、そもそも、この二人にこれから先の話は、とても伝えられない。ひょっとすると、ナタリアなんて、子供達と同じレベルの知識かもしれない。無垢なナタリアにアッシュが襲い掛かるなんて想像出来ない。傍若無人のルークだって、ジェイドよりは周囲に気を遣うだろう。
 アニスは先日以来燻る怒りを前に置かれた高級なお茶を飲んで、どうにかやり過ごした。


 すげぇ、とか、これが大人のキス、とかいう小さな声にアニスは我に返った。広く開けらた玄関前に、すらりと仮装した子供達が目を爛々と輝かせて立っている。彼らが見入っているのは、この屋敷のハロウィンの飾りつけでもなければ、アニスが丹精込めて作ったお菓子でもない。間違いなく、ジェイドとアニスを見物していたのだ。
「ジェイド、離して」
「いやだ」
 もう一度と唇を寄せるジェイドの姿に、一番前列に立つ、ませた女の子が映画みたい、と声をあげた。アニスはようやく冷静になった。せっかく用意したマントは肩から半分ずりさがり、蝙蝠柄が散った橙色のタンクトップは裾があがって、胸の下あたりまで秋の空気がひんやりと感じられる。それもこれも、ジェイドの過剰なというか、大人のスキンシップのおかげだ。
「ジェイド、子供達がいるから」
 アニスは無理矢理男を突き飛ばし、乱れた髪を帽子で隠し、マントを体に巻きつけた。横で、ジェイドがようやく事態を理解したとばかりに、子供達に目をやった。
「ああ、君達」 
 頼むから、政府のお偉いさんを煙に巻くような弁舌で頑張ってね、とアニスは心の底から祈った。この男に彼女の祈りが通じたためしはないが、今回も全く逆効果だった。
「邪魔をしないでくれるとは、とてもいい心がけだ。私は君達に感謝している。君達を誇りに思う。存分に楽しんでくれたと思うが、残念ながら、これから先は子供の君達にはまだ見せられない。私達は玄関でゆっくりしていられないから、さあ、お菓子を持って帰ってくれたまえ。そこの君、君を信頼してお願いしよう。お菓子を全部渡すから、皆に公平になるように分けなさい。後は任せたよ」
 偉そうに言うなり、ジェイドは籠ごと、一番背の高い男の子に渡すと、子供達を玄関から押し出した。ちょっと待って、とアニスがとめる暇もあらば、毒気を抜かれたらしい子供達は大人しく玄関の外へと出て行った。
「ジェイド、なんてこと、子供に言うの。ご近所にこれから顔向けできないでしょう」
 閉まった玄関扉に飛びつくアニスの腕をジェイドが捉えた。
「アニス、邪魔者はいなくなりました。これから、大人の時間を楽しみましょう」
「そういうことを子供達の前でいわないでよ」
 ひそひそと抗議の声をあげるアニスの耳に、わいわいと外で騒ぐ子供達の会話が耳に入った。


「ねえ、ねえ、おじさんが子供に見せられないって、何するつもりなのかなぁ」
「もっとすげぇキスじゃないか」
「ちがうぞ、俺は知っているぞ。長いキスした後に、二人で裸になるんだよ」
「知ってる、知ってる。裸になって、ベッドに並ぶと、コウノトリがやってくるんだよ」
「ばっかだなぁ。裸になったら、大人はエッチをするんだ」
「え、エッチってキスの外にも何かするの」
「見せられないようなキスをするんだと思う。さっき、おじさんが言ってたじゃないか」
「死霊(ネクロマンサー)ジェイドはアニスとエッチをするんだ」
「うちのお兄ちゃんが軍にいるんだけど、死霊(ネクロマンサー)ジェイドはなんでも一番に出来るんだって」
「ふうん、じゃあ、一番のエッチをするんだ」
「お兄ちゃんにどんなのか聞いてみるね」
「ねえ、お兄さんが教えてくれること聞かせて」
「あ、俺も聞きたい、聞きたい」
 

 どうやら、門の方に向うらしい。子供達の声はだんだんと小さくなっていった。だが、アニスの怒りはそれに反比例して、ごうごうと燃え上がった。
「ジェイド、この落とし前をどうしてくれるつもりなの。私、明日から、マルクト帝国で顔をあげて歩けないよ」
 いまだ、子供達には見せられないことをしようと意気込んでいる死霊使い(ネクロマンサー)ジェイドに向って、真っ黒の妖気とともにネガティブゲイトが襲い掛かった。
 次の日、ご近所どころか、マルクト帝国の皇帝陛下までもが嬉しそうに「すごいエッチ」の話を持ち出すことになろうとは、このときアニスは知る由もなかった。
モクジ
 
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