ハロウィンのお話 2009

モクジ

  幻影  

 かそけく鳴く虫の声が単調に続く。澄んだ秋空を堪能しようと開け放った窓からひやりと夜気が流れ込んだ。手元の書類が風をはらみ、ふわりと舞い上がった。
 手にしていたペンを置き、ジェイドは物憂げに長い髪をかきあげた。色褪せた砂色の髪はうっとうしいだけだ。そろそろ、切る頃合だ。仕事をするでもなく、ジェイドはぐるりと部屋を見渡した。机の上のランプが風に揺らぎ、長い影が部屋の隅へと伸びていた。窓際の床には月明かりに窓枠がくっきりと影を落としている。何気なく、窓の外を見上げると、空を切り取ったような白い月がぽつねんと浮いていた。
 気のせいだろうか。白い月の前を弧を描いて小さな黒い影が横切った。南に帰る鳥達が青白い光を頼りに飛んでいるのだろうか。それとも、塒から呼び出された蝙蝠達が遊んでいるのだろうか。
 書きかけた書類が乱れないように、ジェイドは机の端に置かれたペーパーウェイトを取り上げた。数えられないほど触れられたそれは、ブロンズ製の小さな猫の形をしていた。以前は黄金色に輝いていたものだが、すっかり黒ずんでしまい、月の光も鈍く散乱し、ひんやりと冷たかった。だが、長年愛用し、ジェイドは新しいものと置き換えるつもりは毛頭なかった。白い紙の上で、年老いた猫がのんびりと寝ているようにも見えた。
 まるで、今の自分の姿のようだ。
 指先でペーパーウェイトの輪郭を軽く撫で、ジェイドはゆっくりと立ち上がった。彼の体に馴染んだ椅子は、静かな彼の動作にも関らず、ぎしりと軋んだ。そろそろ、油を注さないといけないようだ。ジェイドは引き出しを探ったが、生憎、機械油は置いていなかった。これしきのこと、後回しでもいいだろう。雑然と引っ掻き回した引き出しをしまい、ジェイドは机のランプを消した。
 部屋はすっかり暗くなり、青い月の光に窓ガラスが煌いて見える。一歩、一歩、確かめるように窓際まで近づき、半分ほど開いていた窓を外へと押し開いた。
 窓枠に、人待ち顔のカボチャのランタンが置いてある。中には小さな蝋燭が立ち、出番を待っている。ジェイドはすっと指先を伸ばすと、蝋燭の芯が燻り、やがてまっすぐに炎が立ち上がった。丁寧にくりぬかれたカボチャの内側が橙色の炎に照らされ、切り取られた半眼の目や、ぎざぎざの口の影が黒く揺らめく。
 ジェイドは月を見上げ、そのときが来るのを待った。
「ジェイド……」
 背後から小さな声が聞こえた。
「待っていましたよ」
 振り返らず、ジェイドは答えた。
「お待たせ」
 柔らかな声が彼の間近に迫り、背中にふわりと温かな感触がした。
「何か変わったことがあった」
 好奇心一杯に問い返す声に、ジェイドは最近の昇進を知らせた。
「嫌だと断っていたのですが、とうとう、他になり手がいなくて、マルクト帝国軍陸軍元帥を拝命いたしました。わが帝国は、皇帝を筆頭に慢性の人材不足のようです」
「おめでとう。人材不足じゃないでしょ。私の大事な坊やも仕官したって去年言ってたよね」
 嬉しそうなクスクス笑いが背中を擽った。振り返りたい衝動をジェイドはぐっと堪えた。
「何も親と一緒の職業を選ばなくても良かったと思いませんか」
「天職だからしかたないよ。それで、ジェイドは相変わらず忙しいの。元気にしている」
「忙しくないと言ったら、心配してくれますか」
「いつでも、ジェイドのことは心配しているよ」
「それなら、……」
 言いかけて、ジェイドは別の問いかけをした。
「もう、苦しくないですか」
「ありがとう。今は生まれ変わったみたいに体が軽いよ。ジェイドには散々泣き言いっちゃって、ごめんね。もう、私のことは心配しないで。それで、自分のことだけ、大切にして。だって、ジェイドが元気ないと、私、また苦しくなっちゃうもの」
 甘い吐息が彼の首筋を擽った。ジェイドはその感触に息をのんだ。
「では、今も元気ですよ。そういうことにしてください。でも、あなたに会いたい」
 窓枠を握り締め、ジェイドは言葉を搾り出した。
「そのうち、会えるよ」
「約束ですよ」
「私が約束破ったことがある」
「私の元から去った」
「それは、約束できなかったことだもの。だけど、ね、今来ているでしょう」
「だから、私も約束は守っています」
「うん、ジェイドが私を待っている間、必ず来るからね」
 カボチャのランタンの中で、長い炎をあげた蝋燭が揺れた。
「ええ、ありがとう。でも、一目でいいからあなたに会いたい」
「まだ、そのときじゃあないよ。いい年して、手がかかるね、ジェイド」
 柔らかくしっとりとした唇が彼の耳元に触れた。じじっと蝋燭の芯が音を立て、小さな蝋燭はすっかり溶けて、カボチャの中へと広がった。長く伸びた炎は揺れたかと思うと、一筋の煙をあげて消え去った。
「アニス」
 たまらずに振り返ったその先は暗いからっぽの書斎だった。
 ジェイドは深々と息を吐き出し、もう一度窓の外を見上げた。さわさわと風に庭の木々がゆらめき、小さな影が月に向かって羽ばたいた気がした。いつの間にか、虫の音も止み、水の流れの囁きが秋の爽やかな空気を揺らす。
 必ず迎えに来ると約束してくれた。それだけでは淋しいと訴えたら、いつまでたっても手がかかるなぁ、と半ば呆れながら、それでも、一年に一回だけお話してあげる、と誓ってくれた。それが何か、ジェイドにも分からない。しかし、彼は確かにその声を耳にし、間違いなく柔らかな感触に身を震わせた。
 誰も信じなくとも、彼だけ知っていれば、それでいい。月明りの眩しさに目を閉じると、さらに眩しい愛しい人の瞳と、ほっそりと、だけどしなやかな肢体が浮かび上がった。出会えた奇跡を糧に、明日からまた一日、一日を歩んでいく。その果てに彼女が待っていると思えば、長いときを過ごすのも悪くはない。
 ジェイドは月に向かって、穏やかに微笑んだ。
モクジ
 
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