王国

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十六夜

 王宮の庭は緩やかな南の丘陵へ向かって森となって続いている。主翼から延びる幾何学的な構成の水の流れとそれに伴う数々の噴水や小さな池の周りは、程よくベンチや小さな東屋などが配されている。そこは、貴族達の戯れの待ち合わせや、王宮内では相談できないことをこっそりと囁き合う重臣達、あるいは、恋の鞘当ての結果の決闘を行う騎士達と、いつも賑々しい。それに比べ、西翼にいたる庭は、緩やかな曲線で縁取られた花壇とそれを囲む小さな木々が、やがて大きな林へと自然に変化している。
 林の中の小道は、庭の手入れのために行き交う年老いた庭師とその弟子達、あるいは、秘めたる恋人たちがたまに忍び入るだけで、ほとんど人影はない。林は西翼の淵をすぎると、森とでも呼ばれる深い樹木に変わり、中の道も露草やホタルブクロ 、ツリガネ草などに半分覆われ、歩く人などいない。森の奥にはこれまたひっそりと小さな泉が湧き出ており、その泉の先が流れ着く場所には古ぼけた離宮が忘れられたように位置している。


 夏も過ぎるこの時期は、夕刻ともなると、霧がどこからともなく沸き出でて、ただでさえ、見通しのない森の小道を覆う。
 彼は森の中をそぞろ歩くのは以前から好きであった。たまには、誰も教えてくれないが、自分の父親がいるであろうと想像しているエルフの故郷、ヘイムダールを思い浮かべ、そこへ到る道になぞらえながら、歩く。それは本当に先に手を差し伸べるものが現れ出でるように感じられ、思わず、森の先を凝視することもある。しかし、今日はそのような夢見勝ちな気分にはとてもなれなかった。


 先月来、王と軍の強い要求で、更に高性能な兵器の開発を命ぜられ、主席研究員としての雑事に加えて、連日、とてつもなく忙しかった。
 昨日は王が先触れを出していたので、それでも、いつもよりは早く戻ってきたのだが、どういうわけか、王はすでに彼の部屋に来ていた。待たせてしまったためか、機嫌がひどく悪かった。最近は体も成長し、以前ほど、体を痛めつけられることは少なくなった。その分、王の機嫌によっては、長時間の快楽と苦痛による責め苦が待っている。昨晩は、なけなしの自尊心も踏みにじられ、冷酷にいたぶられた。
 昼過ぎに気づいたときには、王の姿はなかった。どうにか、起き上がるが、この状態で研究所に行くわけにも行かず、さりとて、部屋の中に残る昨日の名残りにいたたまれず、湯浴みをすると、逃げるように外に出た。


 森の木々は霧の中、茫洋とした影を作り、まるで彼を招くかのように、風に揺らめいている。ひょっとして、この霧の中を歩けば、そのまま別の世界へと連れて行ってくれるのではないかと錯覚をする。いっそ、戻ることのできない場所へと自分を誘って欲しい。何も考えずに、ただわずかな踏み後に従い、足元が露にぬれるのにも構わず、霧の奥へと隠れるように歩く。
 今日は、王族と主だった将軍達が集まり、夕刻より御前会議を行うと聞いていた。彼がいなくとも、誰も気づきはしない。


 クラトスは久しぶりに父と供に参内した。会議が始まるにはまだ間があったが、重臣達はクラトスの父を見るや取り囲み、王が来るまでの密談へと入る。
 王立士官学校へ進学してからは、王都といえども、この王宮とは反対の位置にあるため、こちらへはなかなか来る時間が取れない。規律正しい士官学校では、学問所のときのように、気ままに抜け出すことも叶わず、ユアンとも長い間会っていない。父達が話に夢中になっているのをよいことに、そっと、謁見室から抜け出す。今日の話はどうせ深夜まで及ぶだろうから、ゆっくりとユアンと話ができるはずだ。
 後少しで士官学校を終えれば、彼も王の元、忠誠を誓い、騎士として取りたてられる。すでに、王と父の間で騎士団への所属など話は進んでいるようだったが、形式的には彼から王への誓願が必要となる。誓願は明日の朝、他の者たちと一緒にとのことだったので、これ以上、ここにいる必要はない。


 西翼へと通ずる廊下はいつもながらに人が少ない。こちらの部屋を与えられている多くのものは軍に出向いているか、王宮の別の場所で働いているのであろう。
 二階へと通じる回廊の向こうに、霧に煙った森が見えた。森の木々とその下に続く道はぼんやりとしており、風に揺らぐ靄がまるで妖しく人を呼び込んでいるかのようである。ユアンはこの森が好きで、たまに一人で彷徨っていると聞いたが、今日の森はやけに重苦しく、クラトスを拒否しているように感じられる。


 目的の扉の前につき、声をかける。何の返事もない。王立研究所に出向いていないのは、こちらに来る前に使いを出していたら分かっている。どうしたのだろう。ユアンが他の場所に行くことはほとんどない。また、以前のように具合が悪くて寝込んでいるのだろうか。
 そっと扉を押すと、抵抗なく開いた。夕暮れの日が無人の部屋に差し込み、わずかに壁を茜色に染めている。ユアンの部屋はいつも訪ねても、整っている。すべてがあるべき位置に置かれ、数少ない調度はどれ一つ無駄なものを載せていない。それでも、わずかに飾られているもの、小さな銀の燭台やさりげなく部屋の隅に置かれている花をつけたまま乾かされた薬草の小さな束が部屋の持ち主らしい優美さを感じさせる。
 クラトスが以前贈った玩具のような銀の香炉もそのまま使われ、炉棚の上のちょうど真中に置かれている。部屋のなかに漂うユアンの香が心地よい。白檀に何がしかの薬草を加えたその香は夏の終わりの蒸し暑さを感じさせず、爽やかだ。奥の寝室の扉が開いていたが、中にも誰もいなかった。
 すぐに戻ってくるだろうと、しばらく、前室の長椅子で待つ。


 クラトスももう子供ではないから、ユアンが隠そうしていることにはそれとなく気づいている。王宮のなかでの噂も聞きたくなくとも、たまには、耳に入ってしまう。だから、問いただしはしないが、今もこの部屋の中にわずかに残る陛下の麝香の香。また、何かされたのだろうか。
 ユアンはどんなに調子が悪くても、何も彼には言わないが、ひどく腫れ上がった目だとか、服の隙間から見える首のまわりの痣だとか、たまに苦しそうに胸を押さえていたりするのも、嫌でも目につく。父親に何回か遠まわしに尋ねたこともあったが、他のことなら率直に答えてくれるのに、ユアンのことは「お前に分からぬこともあるのだ。」とそれ以上教えてくれない。クラトスで出来ることがあるのなら助けて上げたいのに、ユアンも父も決して立ち入らせてくれない。
 いつまでも、子供扱いしてほしくない。もう、彼も騎士として取り立てられるのだ。対等につきあってほしい。
 そんなことを考えている間にも日が落ち、部屋に涼しい夕刻の風が吹き込む。いつまで立っても、戻ってこないユアンのことが心配になり、テラスへと通じる窓をあけ、外を望む。


 霧に誘われるまま歩いていき、気がつくと、少し開けた泉のほとりに出ていた。
 その泉の回りは小さな草地になり、淡い桃色の細い筆の穂先のように咲く小さな花や、まるで白い星のように開いているツマトリソウで覆われ、さながら、妖精達が先ほどまで遊んでいたような優しい空気が流れている。この先は進むことができない。泉が流れ出す先の小さな流れの先はもう踏み跡も見えないほど、夏草で覆われている。
 この場所は好きだ。この先に流れは離宮へ向かっていると親しくなった庭師から聞いていた。だから、鏡のように静まっている泉を覗き込み、母親譲りだとこっそり告げられた自分の瞳が映るのを眺める。このまま、この清浄な水の中に己の思慕が溶け込み、たどり着いてくれればと願う。


 王のごく側に仕えている年老いた侍女から大分前に聞き出して、実母がどこにいるかはおおよそ分かっている。
 聞いてすぐは、どうしても会いたくて一度だけ離宮に赴いたことがある。だが、警備が厳しく、中に入ることはできなかった。王に告げられ、主席官がその騒ぎを知って止めに入ってくれなかったら、片目を失うところだった。
 それからは、決して近づかない。主席官が暗に傷つくのは彼だけではないと教えてくれたので、絶対に側には寄らない。だが、時間ができれば、離宮がようやくに見える森の中にただ座って、そちらを眺める。すると、ほんとうにかすかな、まるで、夜明けの明らんだ空へ星が消えようとする一閃のまたたきのように暖かいマナが感じられることがあった。


 今日は泉の側に横たわっていても、何も感じられない。
 たまに、ひどくくたびれてしまうことがある。今日もそうだ。理不尽に向けられる憎悪にただ怯え、自分を哀れむばかりだ。己が我慢さえすれば、この存在さえ知らないであろう大切な人は平穏に過ごせるはずだと信じているのに、今日のように何も返ってこないと訳もなくつらい。
 まるで幼い子供のように涙を流し、よい香りのする草原に身を投げ、思いきり自身の持つ全てのマナを放出する。このまま、大地が彼のマナを呑み込んでくれれば、森の中の木々に溶け込み、霧となり、川の囁きとなって、奥宮の手の届かない彼の人を見守ることができるのに、無情にも大地は彼のマナを受け付けない。


 戻ってこない友を心配し、テラスの張り出しから、森を眺める。すでに日が落ち行き、影を濃くする森を見遣ると、遠くに声が聞こえた。わずかに震えをおびたその声はまるで泣いているように感じられた。ユアンが呼んでいるのだ。
 そのまま、テラスから下へ飛び降り、呼ばれた方へ向かって慌てて走り出す。森はさきほどと違い、クラトスを拒否していない。それどころか、どこからともなく道を指し示す囁きが聞こえる気がする。すでに亡くなった母親の優しい手が遠い昔に庭の中を導いてくれたように、声なき声に従い何も迷わず、真っ直ぐ奥へと進む。
 ユアンはいつから自分を呼んでいたのだろう。早く気づいてあげればよかった。急く気持ちを抑え、暗くなりゆく森の木々を掻き分ける。


 ぽっかりと空いたそこは、今までとはまるで違う場所だった。一瞬、森の淵で足を踏み入れていいかどうか、迷う。
 すでに薄暗くなった森の中にそこだけ明るい草地の泉の側に、ユアンが膝を抱え、まるで置物のように座っている。長く青い髪が彼の背中を覆い草地に広がり、泉をじっと身動きもせずに見遣る彼の横顔は冷たい大理石の彫像よりも硬い。すでに霧は濃い夕闇の中へ消え、くっきりと分かるユアンの引き結んだ口元と何か貫くような冷たく淋しい眼差しに、声をかけることを躊躇う。クラトスが見てる間も、ユアンの印象的な青い目から涙が静かに零れ落ちている。凝視した先の何が彼を悲しませているのだろう。
 どれぐらいたったか、ゆっくりとユアンがこちらを振り向く。わずかに目を見開き、道に迷った幼子のように目線を揺らす彼を見て駆け寄る。


「ユアン、お前が呼んだから、来たよ。遅くなってごめん」
「クラトス様」
 夢でも見ているのだろうか。だが、駆け寄り、彼の顔を覗き込むその表情は活き活きとしており、決して、幻ではないことを教えてくれる。
「お前の部屋で、戻るのをずっと待っていた。だから、ぼんやりしていて、お前の声が聞こえなかった」
 そう語りかけ、彼の肩を抱きかかえながら、横に座るクラトスはとても暖かい。
「申しわけありません。お待たせしたのですね」
「ユアンが謝る必要はないよ。勝手に部屋に入っていたのだ。それにこんなに悲しそうな顔して一人でいるのは、良くない。もっと、早く呼んでくれれば、よかったのに」
 真剣に覗き込むクラトスの目線が熱く彼の心を潤す。
 それにしても、どうやって聞こえたのだろう。ここに来てから、彼は一度も声をあげていないのだ。それとも、気づかないうちに叫んだのだろうか。いや、叫んでも、声の届くような場所ではない。彼の代わりにクラトスを呼んでくれたのはあの人なのだろうか。
 はっきりと感じる。あの暖かいマナが回りを取り囲んでいることを感じる。絆はそこに確かにあると今分かった。気づいていないのは己の小さな心だけで、クラトスも、遠くの彼の人も、回りの木々のマナも優しく取り巻いてくれいていたのだ。


「こんなに早く来ていただけるとは思いませんでした。来ていただけて、それだけで嬉しいのです」
 しばらく、二人で並んだまま、何も語らず泉の面を眺める。
 月明かりが射し、泉の底から湧き上がる水は、白い砂を揺るりと吹き上げ、わずかに揺らめき、そのまま鏡のような面へと溶け込む。水面からわずかに浮き上がった小さな睡蓮の葉が風に動くと、それにあわせて、少しだけ波紋が広がる。やがて、静まった上に、夜の闇からゆっくりと浮かび上がった十六夜の月が寸分違わず映し出され、彼等の影も草地へと濃く落ちる。
 さきほどまで、ざわつき、疲労困憊していたはずの心が今はどこにもない。ゆっくりと握りしめていた拳を開き、クラトスの手へと近づける。冷たい彼の手が触れると、クラトスはこちらを向き、少し微笑んでから、その暖かい手を彼に委ねる。そして、クラトスの頭が彼の肩に寄せられ、二人の呼吸がゆっくりと同じリズムで刻まれる。


 いつの間にか、高くに上がった月の明りが木々の梢から零れ落ち、様々な影や光りの筋を作り出す。泉の奥の草叢から、季節はずれの蛍が一つ、二つと明滅し、泉の面に映り、それは星明りが瞬いているかのようだ。蛍はやがてその数を増し、気づけば、二人の周りの草地がおぼろげな明りで埋まっている。
 冷たいはずの蛍の明りが広がると、その辺りもふわっと暖かくなり、何も語らずただ身を寄せ合っている二人の周りにそよ風のように纏いつく。やがて、二人の周りを巡っていた蛍たちは、月明かりに導かれるように梢高く上がり、てんでに虚空へ散りいくと、そこはまたもとの静まった草地となる。


 長い間、二人は口を利かなかった。
「気づいたかい」
 クラトスが囁くようにユアンに尋ねる。
「今、母上が側にいたよ。確かに感じられた。お前と僕のことを忘れていないと教えてくれた」
 ユアンも確かに感じた。数年前に失ったはずの優しい真珠色のマナが側に来たことを感じ取った。
「それに、お前のお母様もいたような気がするよ。母上と似た別の暖かい感じがした。きっと、お前のお母様だ。さきほど、お前の声が届いたときに、ここまでの道を教えてくれた」
 言葉には出さず、クラトスの手を強く握る。彼が感じたものを、クラトスも感じているのだ。二人だけの世界。すべてに欠けていると思っていた自分がこんなにも満たされていることを知ることができた。彼の肩の力が抜けたことに気づいたクラトスが手を再度握り返し、彼の頬へ静かに口付けを寄越す。
「ユアン、ずっと前に月に誓ったことを覚えているかい」
「ええ、クラトス様。忘れていません」
「僕は来たよ。だから、お前も忘れないで」
「ええ、決して忘れません」
 彼も握っているクラトスの手を取り直し、その指先に順に口付けをおくる。
「誓います。あなたと一緒にいることを」
 クラトスの赤銅色に煌めく眼差しに酔わないよう、ただ、順番にその形良い指先だけを見て口付けをおくり、後はまた、沈黙の中、肩を寄せ合ったまま、泉を見つめる。


 夏の宵の幻は二度と起こらないと二人とも気づいているから、幻が引く波に攫われるよう闇へ消えていく間、声に出さず、心の中だけで互いに誓いを繰り返す。
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